サポーター体験記
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平和を願い子どもを描き、自然を愛した「いわさきちひろ」の世界
- 取材日
- 令和5年1月13日
- 更新日
茶色の外観が目印です
戦争が無くなることはなく、報道に胸を痛める毎日ですが、
そんな今だからこそ、子どもを通して平和の大切さを訴え続けた画家、
いわさきちひろの透明感に溢れる絵が、心に染み入ります。
練馬ではお馴染みのちひろ美術館・東京ですが、
改めて、人間ちひろに想いを馳せてみませんか。
公益財団法人いわさきちひろ記念事業団 ちひろ美術館・東京
※以下、文中敬称略。
※取材はコロナウイルス感染症の予防対策に十分配慮し、行われています。
取材ご担当:広報/北村 千恵さん
所在地:東京都練馬区下石神井4−7−2
電話:03−3995−0612
URL:https://chihiro.jp/
戦争を体験したことが運命を変えた。38歳からの作家活動
――練馬区ではお馴染みですが、改めていわさきちひろさんの略歴と、絵の世界に入られたきっかけを教えてください。
北村 「いわさきちひろは1918年、第一次世界大戦が終結した年に生まれています。父親は建築技師、母親は女学校の教師をしていました。その当時としては珍しい共働きの家庭で、家庭環境はとても恵まれており、いわゆる裕福なお嬢様として育ちました。子どもの頃から絵が大好きで、周りの誰もが絵の上手な子どもだと知っている、そんな少女時代を過ごしました。
14歳の頃、洋画家の岡田三郎助に師事し、デッサンや油絵を学びます。一度は美術学校を目指しますが、時代が時代でもあり、親の反対を受け、この夢は断念します。ちひろは三姉妹の長女でしたので、20歳の時には親の願いで婿養子をとり、結婚します。相手はちひろを見そめていたようですが、ちひろ自身はどうしても心を開くことができなかった結婚でした。結婚相手の勤務先であった旧満州の大連(だいれん)で過ごしますが、2年ほどで相手が亡くなってしまい、それを機に帰国をします」

『ゆきのひのたんじょうび』(至光社)
――その後、戦争に巻き込まれるのですね?
北村 「ちひろの運命を変えた出来事、きっかけの一つに第二次世界大戦があります。ちひろ自身も東京大空襲に遭遇しており、凄惨な状況を目の当たりにしたことでしょう。その後、両親の故郷である信州の方に疎開し、そこで終戦を迎えます。終戦後ちひろは一人で東京に戻り、新聞記者の仕事をしながら絵の勉強をし、挿絵などを描きながら活動を続けました。挿絵が評判を呼び、仕事が入るようになりまして、絵で生計を立てはじめます。
ちひろが31歳の時、松本善明(まつもとぜんめい)と結婚し、すぐに一人息子に恵まれます。出産後も広告や挿絵の仕事を続け社会的に評価をされるようになり、38歳のときに一冊全てを自身で手がけた絵本『ひとりでできるよ』を出版しまして、本格的に童画家・作家としてのキャリアをスタートさせました」

子どもの絵は、ちひろにとっての未来と平和の象徴
――少しお話しも出ましたが、当時は太平洋戦争やベトナム戦争もあったと思います。こういった戦争は、作風に影響を与えたのでしょうか?

北村 「ちひろのこんな言葉が残されています。『青春時代のあの若々しい希望を何もかも打ち砕いてしまう戦争体験があったことが、私の生き方を大きく方向づけているんだと思います』と。多感な時代に戦争を経験したことが大きな影響を与えているのは間違いなく、ちひろは戦争を経て、一番弱い存在の子ども達が一番の犠牲になるのだと強く感じました。
終戦後に生まれた自身の子どもだけでなく、世界の子どもたちみんなの幸せと平和を願うという視野の広がりがあったのだと思います。ちひろにとって子どもというのは未来と平和の象徴ですので、生涯にわたり子どもの絵を描き続け、平和を願う気持ちを込めたのだと考えます」
――ちひろさんが持つ絵の瑞々しさ、多くの作品に登場する子どもたちの丸みを帯びた線などは、まさに今起きている、ウクライナでの戦争で、ギスギスしてしまっている私たちの心に染み入るものだと思います。『戦火のなかの子どもたち』のような憂いを帯びた目を、子どもたちにさせてはいけないな、と強く感じました。
今、異業種との協働やつながりで新しいものを生み出すことが大切、と様々な業界で言われていますが、美術館でも同じだと思います。美術を通じてお子さんたちと繋がることで、この絵や美術館を好きになる子どもたちが増えればいいなと思います。

『戦火のなかの子どもたち』(岩﨑書店)
北村 「私どももそれを願って活動しています。どの美術館も同じだと思いますが、館が建っている地域というのはとても大切でして、地域の皆さんと一緒に活動を続けていきたい気持ちがあります。これからも、練馬区の皆さんと交流をしつつ、当館で地域に返せるものは何か?を自問自答しながら、運営していきたいです。
また、ちひろの平和を願う気持ちに感銘を受けて、ご連絡をくださる方も数多くいらっしゃいますので、ちひろ美術館では支援会員制度を設けております。こういった皆さんのご好意に応えるためにも、ちひろの想いは次世代に繋いでいきたいと思っています」
――地域とのつながりの話ですが、ちひろさんは当時、なぜ練馬にお住まいになられたのでしょうか?
北村 「ちひろの両親が土地を所有していた縁で、こちらに家を建てているようです。両親が練馬の土地を手にした詳細までは分かりかねますが、ちひろは自然が大好きでしたので、当時の練馬・武蔵野の豊かな自然を愛していたと思います」

――もちろん、我々区民にとっても、それはとてもありがたいご縁でして、いちファンとしても嬉しいです。
北村 「ありがとうございます。私どもも、練馬区の方はもちろん、たくさんの子どもたちにお越しいただきたいという思いがあり、高校生以下の入館料は無料としております。家と学校以外の第三の場所として、この美術館を気軽に利用してほしいなと思います。子どもたちとの交流は、近隣の学校の国語や美術の先生からご連絡をいただき、私どもが出張授業に出向くこともあります。練馬の皆さんに、もっともっと愛される美術館でありたいと思っています」
展示室だけにとどまらない楽しみ方をしてほしい
――ちひろ美術館・東京と安曇野ちひろ美術館では、どのような違いがありますか?
北村 「私どもはいわさきちひろ記念事業団という財団法人が母体で、東京と安曇野、2つの美術館を運営しています。この、ちひろ美術館・東京が1977年に開館し、その開館20周年を記念して安曇野の美術館ができました。後から広大な土地に作っていますので、安曇野の方が東京の何倍も大きいため、展示する作品数も安曇野の方が多くなっております。一方のちひろ美術館・東京は、ちひろが過ごした場所ですし、アトリエの再現など、作品もそうなのですが、ちひろの人間性や人となりを、より色濃く感じていただける作りになっております」
――これから初めて来られるシニアの方もいらっしゃるかもしれません。作品はそれぞれ自由に鑑賞すれば良いと思いますが、おすすめのポイントや楽しみ方があれば、ぜひ教えてください。
北村 「絵を見ていただくだけではなく、美術館全体で雰囲気を感じていただきたいと思っております。例えば“ちひろの庭”は、春には枝垂桜や蔓薔薇などが咲き誇りますので、美しい自然を見た後に、季節感を大切にしたちひろの作品を鑑賞いただいたり、図書室で、自分が好きだった本を見つけて触れたりと、展示室だけにとどまらない楽しみ方が可能です。隔週で週末に、当館の学芸員が案内するギャラリートークイベントも開催していますので、こちらも通常の鑑賞とは異なる発見につながると思います」


――最後に次の展示の予定を、少し教えていただけますか?
北村 「3月18日(土)から、著名な童画家である、初山滋(はつやましげる)の企画展「没後50年 初山滋展 見果てぬ夢」と同時開催でちひろの「ちひろ 光の彩(いろどり)」という企画展を開催します。こちらも充実した展示になる予定ですので、楽しみにお待ちください」


『青い鳥』(世界文化社)より 1969年
※ちひろ美術館・東京は、館内整備のため2023年1月16日(月)から3月17日(金)まで冬期休館しています。
展示中の「くらし、えがく。ちひろのアトリエ」を見学しました! ※展覧会は2023年1月15日で終了しています。





サポーターの取材後記
- みかちゃん
- 知人からの1枚の絵葉書が「ちひろのあどけない子供の絵」だったことから、「ちひろ」の絵に魅了された私は区内にある「ちひろ美術館・東京」を取材することにしました。自宅兼アトリエである美術館は、彼女が55歳で亡くなったあとに作られた、世界初の「絵本美術館」だそうです。
「ちひろ」はここで22年間、代議士だった旦那さんと子育てをしながら9600点以上の絵やデッサンを描いております。当時のままを再現したアトリエは、今にも「ちひろ」が現れるようで親しみやすかったです。
作品のほとんどが「幼児から大人まで楽しめる絵」で、特に私は、子どもが自然で平和な生活の中で自由に活動する姿を描いた作品に、心が清まる思いでした。
いまはウイルスに追われる毎日、またウクライナの惨状を目の当たりにし、人の、特に子どもの命の大切さを感じる日々ですが、これらの作品に、私たちはどこか切ない気持ちにもなります。
ちひろは戦争にも巻き込まれ、信州に疎開したこともありました。苦難の時代を背景にして、こんな作品が生まれたのではないでしょうか。武蔵野の緑の中、練馬で過ごした22年間が、「ちひろ」にすれば、平和で思いっきり制作に没頭できた時間だったのかもしれません。
「ちひろ」の心暖かい世界観あふれる作品を、取材を通じ、練馬の子どもや大人にも、ぜひ披露したいと思いました。
- Mita?
- いわさきちひろさんは、かわいい子どもの絵や子どもが遊んでいる姿を優しい色彩で描く水彩画家というイメージを持っていました。絵を描くことが好きな子で、絵を描くことを続けさせてくれることを条件に結婚を承諾したとの説明がありましたが、ちひろさんは自分を持ち、自分のしたいことを持ち、それを実現させていった自立した女性であったことが伺えます。
インタビューの前にあらかじめ見学に行ったのですが、どの絵も古びておらず、みずみずしくてまあるい手足の子供が走り寄ってきそうです。
今回のインタビューで一番驚いたのは、黒柳徹子さんの著書「窓ぎわのトットちゃん」のお話を伺った時です。お二人は以前から交流があったのだとばかり思っていたため、てっきりトットちゃんの本ではちひろさんが挿絵を担当されたと思っていました。実際は、本の制作段階ではちひろさんは既に亡くなっていたそうです。黒柳さんがこの本の挿絵にはちひろさんの絵を使いたいと希望して、このような子どもの絵を「描いて」とオーダーしたのではなく、「こういう子どもの絵はありますか?」と尋ねる形で、ストックの中から選択をして組み合わせたとのことです。
ちなみに公益財団法人 いわさきちひろ記念事業団の理事長は、山田洋次さん(映画監督)で、ちひろ美術館(東京・安曇野)の館長は黒柳徹子さん、なのだそうです。
せっかくちひろ美術館・東京が練馬区にあるのですから、練馬人として美術館に足を延ばして、子供らしさにあふれた可愛い絵とゆったりと優しい時間とを味わってみませんか?コロナで私自身もこもりがちになっていましたが、訪れること、それが何よりちひろ美術館とちひろさんの絵への応援になり、自分自身のリフレッシュにもなると感じました。
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