サポーター体験記
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ちば先生の、穏やかでフランクなお人柄に魅了される
- 取材日
- 令和4年11月10日
- 更新日
たくさんのお話を聞かせていただきました!
あしたのジョーにおれは鉄兵、あした天気になあれなど、
数々の代表作を生み出してきた漫画界の伝説(レジェンド)であるちばてつや先生。
今回ご縁があって、シニアナビでの取材が実現しました!
練馬区の名誉区民でもある先生が、あの天井裏の作業スペースから、
私たちの質問に答えてくださいました。
漫画家を志したのは少年時代のアルバイトの挫折からだった・・・?
――先生が漫画家を志したきっかけを教えてください。
ちば先生 「私は小さいころから、いたずら描きも含めて、絵や字を書くことが大好きでした。その頃に読んだ絵本や小説の挿絵などで気に入ったものを見つけると、真似して紙に描いて遊んでいました。
私が生まれたのは戦後間も無くでしたから、どこの家庭も皆、貧しかった時代です。子供は中学生くらいになると新聞配達や牛乳配達など、今でいうアルバイトをやって、家計を助けたり、自分の学費の足しにしたりが当たり前でした。
もちろん私もそういったことを一生懸命に取り組むのですが、どうも地図を覚えることが苦手で、どれだけ丁寧に描いて教えてもらっても、なかなか目的地に辿り着けず、失敗ばかりしていました。
そうすると『てっちゃん、明日から来なくていいよ』と。私は弟が3人いたものですが、『代わりに弟を連れてきてよ』なんて言われたりして(笑)。それでどうしようかと思っていた時、母の知人から求人の三行広告をもらったんです。昔はどこの町にも “貸本屋さん”ってあったでしょう?」
――ありましたね!私も利用した記憶があります。

ちば先生 「たいていそういうところは小さな出版社も併設されていて、そこへ、ずっと書き溜めていた漫画を持ち込んだら、少しはものになる、と思ってくれたんでしょうか。漫画やイラストの描き方を教えてくれたんです。昔は今と違ってそういうノウハウをまとめた本なんて無かったですから、とてもありがたかったですね。いろんなアルバイトはことごとくダメだったのですが、なんとか漫画だけは認めてもらえて。それで本当にささやかなのですが、アルバイト代を手にすることができたんです。それがきっかけで『自分にはもうこれしかない!』と漫画家を志しました」

――ありがとうございます。当時の友達や仲間なんかにも、絵は見せていましたか?喜ばれたんじゃないでしょうか?
ちば先生 「仲間というより弟たちですね。母は漫画を嫌っていましたから、必然的に彼らが最初の読者になりました。厳しかった母にツノを生やして描いたりすると大喜びでね」
魅力的なキャラクターは、先生ご自身の「なりたい!」という願望がベースに
――先生の作品は、さまざまな時代背景があると思います。多くの作品を生み出して来られましたが、何かこう、時代に思い入れがある作品はあるのでしょうか?
ちば先生 「実は私は、時代を見てそれに合わせて漫画を描く、ということはほとんど意識したことがないんですよ。普段新聞を読んだり、テレビを観たりラジオを聴いたりしていると、なんとなく社会の空気感が伝わってくるじゃないですか。そうすると自分なりの世界観が醸成されてくるのだと思います。意識的に『こういう時代だから』と構えたことはないですね」
――なるほど!興味深いです。では作品の生み出し方ですが、一つのテーマを決めると、アイデアは次々と浮かんでくるものなのでしょうか?
ちば先生 「いやいや、、、そんな簡単ではないです(笑)。ただ、私の場合はふと『自分はこんな人間になりたい』とか『こんな人生を生きてみたい』と思った時にキャラクターを考えることが多いです。私は漫画家ですから当然ずっと家に篭って作業をしています。だから常々外で思い切り活動したり、大手を振って歩いたり、そういう活発なことをしたいなぁ、なんて願望がそのままキャラクターに反映されていたりします。
それでそのキャラクターを思いつくと『このキャラの両親はどんな人だろう?』と考え、商売を考え、育て方を考え、どういう学校生活を送っているかな?と発展させていくわけです。それを考え続けると、人間関係までも見えてきます。あとはそのキャラがどういう風に日々を過ごしているのか。これはもう作業の都度、そのキャラクターの日記をつけてているようなものですね。私の場合は結末まで決めてしまってから作品を描くということはあんまりしないんです」
――長編作品が多い印象ですが、一つの作品に関わると、どのくらいの期間かかりっきりになるものでしょうか?
ちば先生 「長いものは数十年単位になった作品もありますね。最初私は、少女漫画を描いていたのですが、少しずつ少年漫画を描かせてもらえるようになってきました。複数の連載を持つと同時進行で忙しいですから、描いている側が混乱して別のストーリーやキャラクターが混ざり合ってしまうこともあるんです。
私よりももっと忙しかった手塚先生なんかは、時代劇なのに、現代の探偵を仕事にしているヒゲおやじというキャラクターが出てきてしまったり、なんてことはあったみたいですよ(笑)。私はそこまで忙しくなかったですから、周りのスタッフが気づいてくれて、慌てて直して間に合った、なんてことくらいですみましたけれど」

あの名作は、少年時代の先生の恋心!甘酸っぱいエピソード
――この取材に際し、さまざまな情報を調べてみますと、先生の仕事場は、屋根裏部屋だそうです。今もそこを使っていらっしゃるのでしょうか?

ファン垂涎の先生のデスクです
ちば先生 「まさに、ここですね!今もこの場所で漫画を描いていますよ。天井もすぐ触れる3畳半のスペースです。奥の方、屋根裏のさらに裏に、仮眠スペースなんかもあります。資料棚もあったのですが、3.11の震災の時に相当倒れてしまって、それを機会に図書館に寄贈したり処分したり、かなり減らしました。もっとも最近ではまた様々な資料が増えてきているのですが、、、」
――突然ですが、先生のご趣味は何かあるのでしょうか?野球をされていたりするようですが。
ちば先生 「趣味は漫画です!放っておけばずっと漫画を描いているくらいですが、一時体調を崩してしまってからは、意識して逆のこと、つまり漫画は座り仕事ですから、表へ出て体を動かして汗をかくことを行っています。そうしないと、普段は締切に追われながら屋根裏部屋で冷や汗ばかりかいてますから、仕事がひと段落した時はできるだけ太陽の光を浴びて熱い汗をかくことを意識しています。ですからもう一つの趣味は部屋から出ることですね。出るだけで気分転換になるので、行きつけの場所とか喫茶店とかは特にないんですよ。光が丘公園もよくいきますし、近所の小さな公園もよく歩きます。
森林浴というと大袈裟かもしれませんけど、大きな木を見つけると、ハグなんかしてね。こういう時間は本当にリラックスできますね」
――外出されている時は漫画のことは考えたりしないのでしょうか?

ちば先生 「頭を休めるために外出していますからね。基本的には考えないようにしています。ただ悲しいかな、漫画家というのは、24時間、常にどこかで作品のことを考えてしまうものなのです。外へ出てすれ違った人が個性的な顔をしている。そうすると『あの人をキャラクターにしてみたいなあ』とか『今の作品のここに使えるかな?』なんてすぐ考えてしまうのです。無意識のうちに取材をしてしまうことはよくありますね。
例えばかなり前の作品ですが“ママのバイオリン”という作品がありました。これは、私が漫画を描き始めるよりもだいぶまえに、よく当時の家の前を、バイオリンを持った女の子が歩いていたんですよ。その子が愛らしい顔をしていてね。今思えば少年時代の淡い恋心だったのかもしれませんね(笑)。教科書の余白に思い出しながらその子を描いてみたりしてね。先ほどのように、彼女はどんなきっかけでバイオリンを習っていたんだろう?と考えて行くうちに作品のストーリーが出来上がっていました」
常に「できる範囲で誰かの役に立ちたい」と考えている
――漫画をお好きな先生には産みの苦しみというのは少ないかもしれませんが、何かご苦労はあるのでしょうか?
ちば先生 「好きで描いていますから、作業自体は全く苦にならないのですが、自分が面白いと思って描くものが、編集者や読者が面白いと思ってくれるかどうかはわからないわけです。だから必ず、一度描いたものは少し寝かせておいて、時間が経ったあと改めて見直して、それでも面白いかどうかは度々試しますね。それで『いや、これでは思ったように面白さが伝わらないなぁ』と思うと、もう少しストーリーを盛り付けたり、逆に端折ったりして調整することはよくあります。
これが苦労といえば苦労ですが、少しでも自分が考える面白さや発見が、そのまま読者にわかりやすく伝わるようには意識しています」
――別の取材記事で、連載と同じタイミングでT Vアニメが始まると、アニメが原作の漫画を追い越してしまうことがあり、ご苦労なさったとありました。このピンチはどのように乗り越えましたか?

ちば先生 「たぶん、あしたのジョーのことだと思います。漫画の連載をしているうちに人気が出てきたので、連載の途中なのにアニメ化が決まったんです。アニメーションの場合、その時々で色々ありますが、例えば私が2−3ヶ月かかって描く話が、1話で表現されてしまうことがあるんですね。だからあっという間に追いつかれてしまって、アニメの方が『この先はこんな展開になりますよね?』なんて先に作ってしまうものですから『それはやめてください』と。違う話を描いてしまうと、アニメを観ている方も、漫画を読んでいる方も、戸惑ってしまいます。ですから、お願いしてアニメの方は第一部終了、という形で一旦放送を止めてもらしました。それでその続きは私の漫画の連載が終わってからあらためてアニメ放映としてもらいました」
――数々のエピソード、ありがとうございます。最後に、今後の先生の抱負をお聞かせください。
ちば先生 「年齢的、体力的なこともありますが、やはり目の酷使が厳しいです。細かい仕事をするのはしんどくなってきました。そんなわけで、果たしてどこまでやり続けられるのか?は私自身わかりませんが、その中でも、現在の私でやれる範囲で描ける漫画、あるいはもしかするとドローイングを伴った講演活動などはまだまだできますから、そういうことでもお役に立てることがあれば、積極的にやっていきたいですね」

――気分転換に外出する際に、練馬の豊かな緑に癒されるという先生。年齢は重ねても、世の中に対する興味や柔軟な発想は、私たちシニア世代の大きな刺激となりました。どの分野においても、お元気で第一線で活躍される方は皆、輝いて見えます。先生の今後の活動を引き続き見守りたいと思いました。
サポーターの取材後記
- 豆柴
- お忙しい先生だが日程調整の上、自分にとって初めてZOOMでの取材が実現した。いささか緊張したが、画面に先生が登場されると天井に手をつけ、茶目っ気たっぷりに画面越しにアトリエを紹介された。終始、話し方は丁寧で穏やか、暖かいお人柄を感じた。発想は何処からとお聞きすると、常に小さな手帳を離さず、興味関心を引くと、直ちにメモ、スケッチする、そこから生き様を想像し着想が生まれる。私のような凡人にはとても出来ないことである。
先生の生き方は、極力、外の空気を吸うこと、日々生きる喜びを感じ、人には迷惑を掛けないなど、色々貴重な人生訓をいただいた。幼少時、祖母との一年間にわたる生活で人生における大きな影響を受けたと語る先生の表情は懐かしさで満ちていた。
短時間であったが、私にとり記憶に残る実り多い取材であった。健康に留意され、これからも楽しい作品を期待したい。実際にお会いしたいと思った。
- ミムちゃん
- 取材を終えて意外だったのは、先生が現代の漫画の形式にも精通されていることでした。技術の発展でさまざまな表現方法が出ている時代です。描く方法、演出(3D)、読み方(電子版は縦・アニメが少し加わったような)など、時代による新たな変化を話している姿が、とても意欲に溢れていらっしゃると思いました。
お仕事で大変お忙しく、日々やる事が沢山あると思われますが、先生ご自身はなんでもなるべく自分の事は自分で、人に頼らないようにされています。さらに、『日頃の散歩道ではゴミ拾いも心掛けています』とのお話。つい今の自分と比較してしまいました。
シニアに向けてのエールをお願いすると、ひと言『よく生きました!!』と。簡単な内容ですが、言葉の重みを感じ胸が熱くなりました。最後までしっかり質問を聞いてくださりきちんと答えるそのお姿は、取材する私達世代だけではなく今の若者にも伝えたいなと思いました。
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