サポーター体験記
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としまえん(豊島園)のその後を追う!愛された遊園地を振り返って

としまえん(豊島園)のその後を追う!愛された遊園地を振り返って
としまえんの乗り物も一部稼働する、西武園ゆうえんちまで出かけました

2020年8月。愛されながら閉園した遊園地、としまえん。
100年近い歴史のある遊園地が無くなって、2年が経とうとしています。
ここで改めて、練馬区民や東京都民の憩いの場であった遊園地の
歴史を振り返り、その魅力を紐解きたいと思います。
当時としまえんで活躍されていたご担当の方にお話しを伺いました。

株式会社 西武園ゆうえんち

※以下、文中敬称略。
※取材はコロナウイルス感染症の予防対策に十分配慮し、行われています。
取材ご担当:運営部長/内田 弘さま
所在地:埼玉県所沢市山口2964
電話:04−2929−5354(コールセンター)
URL:http://www.seibu-leisure.co.jp/

日本の遊園地の基礎を築いた、その裏側

――としまえんと言えば私たち練馬区民にとっては大変に思い出深いところで、それこそずっとあるもの、と思っていました。
少し辛いお話しになるかもしれませんが、改めて閉園までの経緯をざっくりと教えていただけますか?

 ご担当の内田さんは、入社後としまえんの遊具のほとんどを導入されたまさに生みの親とも言う存在
ご担当の内田さんは、入社後としまえんの遊具のほとんどを導入されたまさに生みの親とも言う存在

内田 「1957年に、東京都が主体となって『この場所を将来的に公園にしよう』と、都市計画法のもとで都市計画公園に指定されていましたので、実はかなり前から、未来のことは決まっていたのです。
2011年に東日本大震災が起こりまして、都も防災に関して一層きちんとしていく方向となり、ずっと凍結状態だったものが今後10年以内に事業化に着手する、という話になったそうです。
そこから10年、まさに2020年の8月末に閉園し、公園化の計画が動き出しました。
ですので、経緯を知っている方ならば『いつかは(としまえんは)閉園して公園になるだろう』と思われていたのではないでしょうか。
練馬区でも防災上の観点から避難区域として整備していこうとなったのが2020年の6月だったと思います」



――もともとあそこはどういった場所だったのでしょうか?


内田 「あくまでも西武鉄道所有の私有地ですね。もちろん、通常の東京都の公園でもそのような指定はあるはずです。
いずれにしましても、活用方法や展望などの基本的な設計は東京都の方で計画していたもので、いずれは西武としましても、この土地を売却することになると思われます」

 サポーターそれぞれの人生の思い出もとしまえんは彩っています
サポーターそれぞれの人生の思い出もとしまえんは彩っています

――遊園地の話ですが、文献を読みますと、西武さんが日本の遊園地の礎を築いた面も多分にあるようですね。


内田 「ありがとうございます。おそらく日本の遊園地の中でも最も交通の便が良い遊園地の一つであったと思います。
1970年後半〜いわゆるバブル景気が弾ける1990年代までは、としまえんも『アメリカの遊園地に倣って乗り物をどんどん増やしたい』、『日本一の遊園地にしたい』という方針でした。
おりしも当時は絶叫マシンブームでして、どこのT Vの情報番組を見てもワーキャーという叫び声に溢れていた時代でした。
それに拍車をかけたのも、としまえんであったのかもしれません。
時代の先端を行き、新しい乗り物を入れてきたとしまえんは、ある意味において、日本の遊園地のショールーム的な側面もありました。
としまえんで人気があって上手くいく乗り物であれば、自分の所(遊園地)に導入しても大丈夫だろう、と言った考え方ですね」



――バイキング、流行りましたね。確かにみんなが乗って、みんなが声を上げて喜んでいました。


内田 「としまえんでは40人乗りのパイレーツ、と呼んでいましたが、大変人気がありましたね。
それで『もっと大きいのを作ろう』と120人乗りのものを二隻作ったりしました。
ここが絶叫マシンのピークでしたね。当時は電車に乗っていてもフライングパイレーツが動く姿を見ることができましたから、としまえんの中でも象徴的な乗り物であったと思います」

足で稼いで見つけた?!としまえんのシンボルとなる遊具

――乗り物のお話しになりました。遊園地の乗り物を導入する際に、研究者的な役割の方はいらしたのでしょうか?


内田 「いえ、少なくとも当時日本には、そういう役割の方はいませんでした。私は1981年入社でとしまえんに40年おりましたが、技術畑の出身でしたので、当時の幹部たちとしょっちゅうアメリカの遊園地に行き、いいものはないか?と探し回っていました」



――そこだけ聞くとかなり楽しそうなお仕事なのですが。


内田 「いやいやいや(笑)。社員は皆、そう思っていたと思いますけど、本人にしてみたら、とんでもなく大変な仕事です。
1日に2つずつくらい遊園地巡りをするのですが、出張中の10日間とか2週間、ずっとでしたからね。
当然、アメリカですから、すぐ隣に遊園地なんてあるわけもなく、最低でも、3時間くらいはレンタカーで自ら車を運転して移動しなければなりません。
それこそ暗い部屋の中に入るような乗り物に乗ると、即、眠ってしまうような状態でした。
そんなことを、20回くらいは繰り返したでしょうか。アメリカの遊園地は50以上見ていると思います」

 どこかしみじみとした表情で当時を振り返る内田さん
どこかしみじみとした表情で当時を振り返る内田さん

――持ってこられたもので代表的な乗り物はなんでしょうか?


内田 「以前は日本製の乗り物が中心でしたが、私が入社してからはほとんど海外の乗り物を持ってきていました。
やはり、遊びが得意なアメリカ人が設計し、造る乗り物・遊園地は素晴らしいものでした。まず真似をして、そっくりそのまま再現するところから始めたのですが、実際の乗り物はというと、実はアメリカ製ではなくドイツ製のものを多く導入していました。
今はそんなこともないのでしょうが、当時はやはり、ドイツ製の方が機械製品として優れていました」



――日本機械学会の「機械遺産」になった遊具もありますよね?

 こちらは閉園直前の7月時の写真、たくさんの思い出が詰まっています
こちらは閉園直前の7月時の写真、たくさんの思い出が詰まっています

内田 「としまえんの象徴でもある“カルーセルエルドラド”は1907年にドイツで作られ、そこから第一次世界大戦の足音が聞こえてきたため、1911年アメリカのニューヨーク州コニーアイランドにある遊園地に移設されて戦火を逃れました。
アメリカでは同園が閉園する1964年まで稼働していました。
閉園後は倉庫にしまってありましたが、1969年にそれが売りに出るという情報が入りまして、物も見ずにとしまえんが手を挙げたのです。
なぜかというと、先ほどのように1970年代はまだまだ日本製の乗り物の方が多かった時代です。
目玉となるような乗り物、シンボルとなるような乗り物がとしまえんにはありませんでしたから、是が非でも手に入れたいと考えていたようです。
しかし、買ったはいいが、日本でコンテナを開けるとボロボロの状態で、下手をするとゴミ同然のようなものでした。
そこで、2年かけて修復・設置をし、1971年に新しく命が吹き込まれました。ですから最初に誕生してから115年以上経過しているわけです」


 


――ちなみに現在、そのカルーセルエルドラドはどこにあり、今後はどうなるのでしょうか?


内田 「現段階では、いつ・どこでという詳細は話せないのですが、きちんと格納して、再設置に向けた準備をしているところです。
必ずどこかで復活し、動かしたいと思っています。
いずれにしましても直径30m超、154人乗りの世界最古級とも言えるとしまえんのシンボルであったメリーゴーランドを、日本機械学会さんが機械遺産にしたいというお話は、大変ありがたいものでした。
それまでは産業機械が選定の中心でしたから、その意味でも嬉しかったですね」

皆の心に様々な形で残り続ける、懐の広さもとしまえんの魅力

――練馬区民だけでなく、さまざまなお客さんから、エピソードや感謝の声がひっきりなしに届いていると思うのですが、その点はいかがですか?


内田 「90年以上営業してきましたので、東京にお住まいの方でしたら行ったことが無い方がいないくらい、愛された遊園地でした。三世代、場合によっては四世代で楽しまれた方も大勢いらっしゃいます。
バブルの頃は年間400万人くらい来園されてましたが、その2年後くらいから急激に来園者数が落ち始め、最後の10年くらいは100万人前後でした。
ピークからすれば1/4ほどなのですが、むしろ年間400万人というのが異常な状況で、1日に5万人を超える日がしょっちゅうありました。
乗り物1つ乗るのにも2時間3時間待ちは当たり前でした。
最後の10年間の年間100万人、プール30万人くらいがちょうど良い雰囲気を保てる、そんな時間であったかと思われます。


誰もが無くならないと思っていて、閉園が発表されてからわずか2ヶ月後の閉園、ましてやコロナ禍でしたから、お客様にとっても本当にドタバタの閉園であったと思います。
今でも『行く暇が無かった』『とても行ける状況では無かった』と閉園を惜しまれる声は、よく聞くんですよ。
最後、としまえんで歴史展を開催しまして、私もそこでガイドツアーを7−8回担当したのですが、本当に大勢のお客様・ファンの方が話を聞いてくださって、感無量でしたね。


他にもちょうど閉園の1年後、練馬区立石神井公園ふるさと文化館で、“思い出のとしまえん”展を開催させていただき、たくさんのお客様にお越しいただきました。
そこでも1度だけ講演をさせていただいたのですが、定員90名のところ444名の応募があったとのことで、泣く泣く抽選させていただきました」



――それ、私もいきましたよ!としまえんのさまざまな歴史を話されていましたよね。


内田 「そうですか。それはありがとうございます。
講演では、としまえんの名前の由来や、導入していった乗り物の話などをしました。
『懐かしい!』『あー!あったあった!』なんて声が飛び交う、和やかな講演でした。
としまえんができたそもそもの目的は、当時の東京市民の学校などは校庭が狭く、子供たちが運動不足気味だったようで、“市民の体力・健康増進のため、そして植物等を楽しむためにこの公園の敷地を遊園地とする”、という言葉が残されていると聞いています。
最初は野球場あり、畑ありの本当に自然公園という感じでした」

 こちらがとしまえんの「設立趣意書(趣旨)」、貴重な資料ですね!
こちらがとしまえんの「設立趣意書(趣旨)」、貴重な資料ですね!
 開園当初のM A P、遊園地の原型はありますが、まだまだ公園という印象があります。
開園当初のM A P、遊園地の原型はありますが、まだまだ公園という印象があります。

――としまえんで大運動会、なんていうのは私たちは何度も経験した記憶があります。


内田 「グラウンドの数が最も多い時は7−8面はありましたから、昭和30年から40年くらいは、企業さんの運動会の場所としてもよく使われました。
綱引きの綱から大玉の玉も全部ありましたから、皆さんは体一つで来られて、用意されたお弁当を食べて楽しんでいただく、そういう時代もありましたね。
一時は、企業の皆さんが自前で福利厚生施設を持たれることが流行りましたので、徐々に需要は減少しました。
最近のI T関連の会社さんですと、そもそも福利厚生施設自体にあまりニーズがないこともあります。
ただ、ここ10年くらいでは、合計で20団体様くらいは、運動会でご利用いただいていました」



――としまえんと言えば住宅街での花火が有名なのですが、こちらに関して何かエピソードはありますか?


内田 「開園当初にも花火大会はやっていたようなのですが、当時は単発的なものでした。昭和42年から毎年花火大会を開催していました。
本来であればあそこまでの住宅街で開催なんかできないのですが、近隣の皆様のご理解も得て、夏の風物詩として約38年間開催させていただきました。
当然、賛成ばかりのお声ではありませんから、さまざまな事情を考慮して、一時期中断したこともありましたが、2017年、ご要望の声を沢山いただいたため、花火の玉を小さくし、また高さを低くする形で復活しました」

 閉園時の、お客さんやファンからのメッセージの数々、愛が伝わってきます
閉園時の、お客さんやファンからのメッセージの数々、愛が伝わってきます
 講演アンケートのコメントは、まるで冊子のようなボリュームです
講演アンケートのコメントは、まるで冊子のようなボリュームです

どうせ最後だ、と講演でたくさんの名刺を配布したところ、150通を超える感謝のメールが内田さんに届いたそうです。(しかも全部に返信をされたそうです!)。
公園から始まって、遊園地にプール、そして花火大会など区民をはじめ多くのファンに愛されたとしまえん。
その姿は無くなっても、私たちの心に、それぞれの思い出と共に、いつまでも残り続けることでしょう。

 今回取材に伺った西武園ゆうえんちの現在の人気スポット、「夕日の丘商店街」作り込みがすごいです
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 リアルな造形に懐かしさが込み上げます、サポーターも思わずパチリ!
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 としまえんでも大人気だった「チャレンジトレイン」、元気に走ってます!
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サポーターの取材後記

ヒロちゃん
今回の取材場所は西武園ゆうえんちでした。
園内に入り、巨大な観覧車を目にした時、突然、数十年前に家族と来園した記憶がよみがえりました。
遊園地は、その時の楽しさだけでなく、大切な思い出も作ってくれる場所なんですね。
私には唐突感もあったとしまえんの閉園は、実は東日本大震災の発生をきっかけとして、都民の生命、安全を守るためのものであった事を知りました。
①元々は練馬城址
②大正時代に東京市民の健康増進を目的に開園
③バブル期を頂点に多様なアミューズメントを提供
④都民を守る防災拠点化と、としまえんにおける長い歴史の変遷を感じた次第です。
取材に応じていただいた内田さんは、入社以来米国を中心に世界50か所の遊園地を訪問し、としまえんに新しさ、楽しさを導入され続けた、まさに「生き字引」の方でした。
たくさんの良い思い出をもたらしてくれたとしまえんに、改めて“感謝”です。
豆柴
絶好の取材日和、電車窓からは雪を冠した富士山がくっきり、待ち望んでいたとしまえんの取材が、西武園ゆうえんちで実現した。
内田氏は、お話を伺う程、温和なお人柄が伝わり、40年のキャリア、情熱、遊園地への愛情にあふれ、時代の背景についても分かり易く説明いただいた。
まさにとしまえんの生き字引的なお方。氏の講演には定員の何倍もの希望者が殺到するという。
さぞ閉園にあたっては、寂しさがおありと推察した。
取材後、余韻を楽しむため、園内の夕日の丘商店街を歩き、西武園通貨でなつかしの和菓子を購入、昭和の時代を懐かしんだ。東京出身の家内も懐かしそうに思い出話を語ってくれた。
貴重なお話を伺えたのも、取材サポーターの特権、遊園地はやはり楽しい。
後日、改めて旧としまえんへ、練馬から歩いて15分、電車では僅か2分、都心から本当に便利な所にあった。
今や往時の子供たちの歓声は聞こえない。親子連れが練馬城址公園の整備工事のお知らせを今後どうなるだろうかと見入っていた。

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