サポーター体験記
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身近なお寺の深〜い歴史!日蓮聖人との繋がりをひもとく取材へ

身近なお寺の深〜い歴史!日蓮聖人との繋がりをひもとく取材へ
祖師堂の前でご住職と記念撮影!
※撮影のためマスクを外しています

お寺の創建や成り立ちに興味はありますか?
身近にあるお寺について深く知る機会は少ないと思います。
南大泉にある妙福寺は、「練馬区文化財あんない」にも
掲載される、文化的な価値もある梵鐘(ぼんしょう)が有名ですが、
日蓮宗の開祖である日蓮聖人との深い縁(ゆかり)があることは
ご存知でしょうか?壮大な歴史の流れをひもときにいきました。

妙福寺

※以下、文中敬称略。
※取材はコロナウイルス感染症の予防対策に十分配慮し、行われています。
取材ご担当:住職/戸田 了達さん

所在地
練馬区南大泉5-6-56
電話
03-3978-0111
URL
http://myofuku-ji.com

日蓮聖人を祀る妙福寺と千葉県の関係、そもそもの成り立ちである日蓮宗について学ぶ

――はじめに、お寺ができた経緯や歴史的なところからお伺いしても良いでしょうか?


戸田 「西暦850年、今から1170年も前の平安時代に、慈覚大師円仁(じかくだいしえんにん)というお坊さんが
天台宗寺院としてこのお寺を開いたと伝えられています。
当時の名称は大覚寺と言いました。ただ、当時の詳細ないきさつはよく分かりません。何しろ千年以上前のことですから。
この円仁という人はとても有名なお坊さんで、全国に『円仁が建立・創建した』と伝えられているお寺が
実はたくさんあるんです。円仁とそれらのお寺が実際にどのくらい関わりがあったのかわからないですが、
いずれにしてもお寺を建てる際に何らかの縁があり、開祖として祀り上げたということだと思います。

 戸田住職に、難しいお話を優しく
教えていただきました
戸田住職に、難しいお話を優しく
教えていただきました

平安時代にはまだ日蓮宗は無く、大きく天台宗と真言宗しかありませんでした。
もともと奈良時代に南都六宗と呼ばれる仏教学派があり、仏教の教えを学問的・専門的に研究し、
同時に鎮護国家(ちんごこっか)の祈祷を行っていました。
奈良時代の仏教は信仰というより学問だったのです。
平安時代に新しく天台宗と真言宗が盛り上がってきます。
学問より人々の救済の仏教としての色合いが強くなっていきます。
さらに鎌倉時代には日蓮宗や浄土宗、浄土真宗や座禅の曹洞宗などの新しい宗派が誕生します。
これらは平安仏教の流れを汲んでいて、宗祖たちは比叡山で天台宗の教えを学び、
そこからさらに独自に教義を発展させていくのです」



――奈良仏教で難しくなりすぎてしまったものを、庶民に向けてわかりやすくしたという解釈で良いのでしょうか?


戸田 「というより、学術研究的な仏教から人々を広く救済する仏教への、考え方・思想の変化でしょうね。
ものすごく大まかな言い方ですが、それが奈良仏教から平安仏教への流れで、
そこからさらにそれを深めたり細分化したのが鎌倉仏教という感じに受け止めれば良いのではないでしょうか」



――なるほど。それで妙福寺のご住職はどなたになるのでしょうか?


戸田 「住職の前に、整理しましょう。
まず、平安時代の開祖は円仁ですが、その後、鎌倉時代に妙福寺の歴史の中でとても重要な人物が2人現れます。


1人目は、壽延法印(じゅえんほういん)という人です。
この方は妙福寺の前身である“大覚寺”の住職です。
浅草の浅草寺の学頭(がくとう)を兼務していました。
学頭というのは、教義の研究やお説教をする僧侶のトップという意味で、
昔から大きな寺には住職の他にそういう役目のお坊さんがいたのです。


2人目が、日高(にちこう)上人という人です。
この方は日蓮聖人のもとで直接修行された弟子のお一人で、千葉の中山にある法華経寺という寺の住職をしていました。
ちなみに、日蓮聖人は房州小湊(千葉県鴨川市)でお生まれになり、
当時その地を治めていた千葉氏一族が聖人の活動を支えていましたので、
日蓮聖人にとって千葉はとても縁の深い土地なのです。
その千葉の中山に聖人の有力な信者である富木常忍(ときにじょうにん)という人がいて、その人が法華経寺を建てました。
日高上人は日蓮聖人のもとで修行した後、富木常忍の遺言で法華経寺の住職に就任したのです。


妙福寺の始まりには、ちょっとしたいわれが残っています。

 登場人物が多いのですが、落ち着いて考えると
繋がりがだいぶはっきりと解ります
登場人物が多いのですが、落ち着いて考えると
繋がりがだいぶはっきりと解ります

日蓮聖人が亡くなられてすぐの頃に日高上人が練馬にやってきたことが妙福寺の始まりなのですが、
妙福寺の目の前に白子川という川が流れていて、この流域には昔から多くの人が住んでいたようです。
日高上人が説法にやって来た時、ここに住んでいた高橋さんという方がその説法に感銘を受け、日高上人の弟子になりました。
そこで小さな草庵を作ったと言われており、その草庵と、先ほどの大覚寺が合併して、今の妙福寺になりました」

改宗までして門下生となる壽延法印と日高上人、妙福寺には2人の住職が居た?

――大覚寺とその草庵とが合併するとなると、1つのお寺に住職が2人いるということですか?


戸田 「草庵に日高上人が住んでいたわけではないので、住職が2人ということではありません。
壽延法印は、日高上人と問答をしたそうです。浅草寺の学頭ですから大変優秀な方だったのですが、
日高上人と話すうちに『(日高上人に教えを授けた)日蓮聖人は素晴らしい』と感銘を受けるのです。
そしてその後、自分自身だけでなくお寺そのものを天台宗から日蓮門下つまり日蓮宗に改宗することにしたのです。


実は日蓮聖人も元々は天台宗のお坊さんです。比叡山延暦寺で修行をし、天台宗の勉強をしていました。
しかし、色々勉強していくうちに、天台宗で言っている法華経の解釈は少し間違っているのではないか?と思い始めるんですね。
法華経の言わんとすることはこういうことだ、と日蓮聖人が独自の解釈を行い、
同じ法華経でも“天台法華”と“日蓮法華”という2つの流れができることになりました。
先程の壽延法印は天台法華、日高上人は日蓮法華です。
同じ法華経の解釈についておそらく相当議論しあったのでしょう。
最終的に壽延法印が日蓮聖人の教えに深く納得し、信仰を変えていくことになりました。

 750年もの歴史には、様々な人物や縁
そして強い信仰心が散りばめられています
750年もの歴史には、様々な人物や縁
そして強い信仰心が散りばめられています

そこからおよそ750年、妙福寺は日蓮門下のお寺として歴史を刻んできたということになります。
改宗後の初代住職は“壽延法印(後に改名し、日延と名乗る)”なのですが、
今お話ししたようないきさつがあるため、開祖(一番最初の住職)は日高上人ということになっているのです」


                                                 
―とても複雑なご縁があっての今、ということがよくわかりました。
ところでなぜ妙福寺は西中山(にしなかやま)妙福寺”と呼ばれているのでしょうか?


戸田 「先程の日高上人は妙福寺の誕生に縁が深いわけですが、本来の立場は中山法華経寺の住職です。
そのことがあって、その後、法華経寺の住職が妙福寺の住職を兼任するという流れになります。
そして法華経寺の西側の地域を統括するお寺として妙福寺は重要な地位になっていきます。
なので、西の中山という意味で西中山(さいちゅうざん)という山号(さんごう)が付きました。
実は妙福寺と同じような立場のお寺が東の銚子の方にもありまして、そのお寺は正東山日本寺(しょうとうざんにちほんじ)と言います。
正中山法華経寺、西中山妙福寺、正東山日本寺、この3つのお寺で千葉から練馬あたりまで日蓮門下で治めていたのが歴史となります」

幕府の祈願所として格式が高い妙福寺は、庶民からも愛されていた

――時の政権と、お寺との関係はあったのでしょうか?例えば妙福寺はどのような関係性にありましたか?


戸田 「政権と関係があったかどうかはわかりませんが、幕府の祈願所にはなっていました。
江戸幕府から21石5斗という朱印地を拝領しており、その朱印状の写しは今でも残っています。
原本は明治になって新政府に回収されていますので、当時発給された本物の朱印状というのは、基本的に残っていません。
本物が回収されると同時に写しをもらい、それを“寺での本物”としています。
幕府のオリジナルではないものの、正真正銘の本物という解釈ができると思います。
全国どこのお寺でもそうした写しを“本物”として大事にしているようです。


ただ、当時の有力なお寺、現在でも残っている比較的大きなお寺は、多くが幕府の祈願所になっていましたから、
これは妙福寺だけ特別ということではないと思います。
この21石5斗の石高には格式がありまして、例えば紫の衣を着られるのは何石以上の寺、などが決められていたんです。
妙福寺は紫の衣に緋紋白(ひもんぱく)の袈裟を着用して良い、という許可を幕府からもらっていますので、
格式が高いお寺であると言えます」



――それを知っていれば、色々な式典などで、ご住職が身につけているものを見ると、おおよその格式がわかる、ということですね。
最後に、地域との繋がりについて教えていただけますか?


戸田 「一番大きなつながりは“御会式(おえしき)”でしょうか。
御会式というのは日蓮聖人のご命日(10月13日)に合わせて行われるお祭りのことです。
全国の日蓮宗のお寺で様々な形で行われています。


妙福寺の御会式で行われる万灯行列(まんどうぎょうれつ)は江戸時代から続いている伝統です。
“講”と呼ばれるグループが賑やかに団扇太鼓を鳴らして道路を練り歩き、明かりを灯した大きな花万灯を引いてパレードします。
そして妙福寺のお祖師さま(日蓮聖人)にお参りして帰るというものです。
今でもおよそ1万5000人を超えるお客さんがこの御会式を見に訪れます。
ちなみに全国的に有名な御会式は大田区の池上本門寺です。
本門寺は日蓮聖人が亡くなられた場所なので、御会式の本場と言えます。
本門寺の御会式には全国各地から何十基もの花万灯が出て、それは賑やかです。
妙福寺はそれには及ばないものの、20ほどの講が参加し、そのうち花万灯を出すのは5講くらいでしょうか」

 花万灯の様子、木で作られた五重塔の壁面に
日蓮聖人の物語が描かれているのだそう
花万灯の様子、木で作られた五重塔の壁面に
日蓮聖人の物語が描かれているのだそう

――この纏のようなものはなんでしょうか?火事にならないように振っているのでしょうか?

戸田 「日蓮聖人の教えは、江戸の庶民に物凄く浸透したんです。特に貧しい人たちにとっては顕著でした。
それまでの仏教は、京都を中心とした、いわばお金持ち・貴族のためのものでした。
逆に言えば裕福な方が居たからこそ立派なお寺や仏像を作れたのですが、
今でいうエリートの方達が、教養のために仏教を学ぶという面がありました。
でも本来お釈迦様はお金や身分に関係なく、全ての人を等しく救ってくれるはずです。
立派なお堂や仏像がなくても、お経が読めなくても『南無妙法蓮華経』と唱えれば、
あなたが居るその場所がそのまま仏様の道場なんだよ、と日蓮聖人は説いたんです。


信仰によって誰もが必ず救われるという教えは、江戸の庶民に圧倒的に支持されるわけです。
やがて町人たち、特に町火消しの人たちが日蓮聖人を偲んでご命日に纏を振って町を練り歩くようになったそうです。
それが万灯行列の始まりだと言われています。
そんな祭りには、だんだんと店が出て、物の売り買いが始まり、縁日のようになっていきます。
妙福寺の場合、昔はかご市と言って、生活雑貨を売るお祭りだったそうです。
この地域はかつて小榑村(こぐれむら)と言われていましたので、“小榑のかご市”と呼ばれていました。
関町の本立寺にはぼろ市があり、この地域の2大お祭りだったそうですよ。ぼろ市も御会式のお祭りなんですよ」

境内を住職自らがご案内。素人にもわかりやすい特徴と見どころとは?

戸田 「このお寺で一番古い建物はどれか?とよく聞かれるのですが、正確に把握している範囲ですと、
ここ、“庫裡(くり)”と呼ばれる場所になります※。
元禄14年(1701年)にできた建物です。元は茅葺き屋根でしたが、今は茅を取って銅板に葺き替えています。
昭和40年頃に一度解体修理をしていますが、昔の名残が今でも残っています。


かつてこの場所は土間で、入り口に背の高い大きな木戸があるのは将軍が馬に乗ったまま入ってこられるようになっているためです。
この地域は江戸時代に幕府の御鷹場だったらしく、妙福寺は将軍が鷹狩りをする際の休憩所になっていたそうです。
こちらの柱は馬の手綱をかけるためのものです。
この建物は築年数で言うと300年は経っていますが、改修していますから文化財にはなっていません。
しかし、実際に使用している建物としては練馬区の中でも一番古い建物の一つで、東京都内でも有数だそうです」
※庫裏とも。寺務所兼台所の機能があるが、小規模な寺院では住職の住まいである方丈(ほうじょう)も合わせて、本堂と庫裡で寺院が構成されている。

 天井は縄で竹を編んで作る、傘(からかさ)造り、
大黒柱を中心に、傘と同じ形状で建てられました
天井は縄で竹を編んで作る、傘(からかさ)造り、
大黒柱を中心に、傘と同じ形状で建てられました
 この「大」という札は月の日数で31日まである時は
大、それ以外は裏の小をかけ、今でも使われています
この「大」という札は月の日数で31日まである時は
大、それ以外は裏の小をかけ、今でも使われています
 このお駕籠は、豊臣秀吉の姉が出家し入った門跡寺院から
当時贈られたもので、区の文化財に指定されています
このお駕籠は、豊臣秀吉の姉が出家し入った門跡寺院から
当時贈られたもので、区の文化財に指定されています
 梵鐘は、当時、寺の役員だった村長さんが、戦時中
隠したことで軍の鉄材の徴収を免れたそうです
梵鐘は、当時、寺の役員だった村長さんが、戦時中
隠したことで軍の鉄材の徴収を免れたそうです
 長崎の平和祈念像で有名な北村西望作の日蓮聖人像、
荒々しいイメージで強い内面の意思を表しているそう
長崎の平和祈念像で有名な北村西望作の日蓮聖人像、
荒々しいイメージで強い内面の意思を表しているそう
 この祖師堂の中には、日蓮聖人自らが生前に魂を入れた
という日蓮聖人の御像が祀られています(御像は通常非公開)
この祖師堂の中には、日蓮聖人自らが生前に魂を入れた
という日蓮聖人の御像が祀られています(御像は通常非公開)

この日はこの後、法要があるにもかかわらず、ご住職には妙福寺の歴史や現在も脈々と息づく文化について、丁寧に教えていただきました。
何度も訪れたことのある場所に深い歴史が刻まれていたことが印象的な取材でした。

サポーターの取材後記

みかちゃん
古刹「西中山妙福寺」の訪問取材で多くの“驚き”がありました。まず歴史がすごい点。創建から1200年!身近にこんな歴史の寺院があるとは…!他にも、妙福寺の大元は白子川流域のひなびた集落に草庵を構えたということ、また、鎌倉時代に日蓮宗中山法華経寺の日高上人による説法に感銘し、現在では考えられない改宗をした点など、大変に興味深いものでした。
後半、境内を住職に案内していただきましたが、そこでも思わず「アッ」と声をあげる出来事が。祖師堂のそばに立つ「快傑日蓮像」は、あの「長崎平和の像」で有名な北村西望作で、今見るとまるで「コロナよ立ち去れ!!」と言わんばかりの憤怒の表情、また指を彼方に向けて突き出している姿で、伺った日蓮聖人のイメージを覆すものでした。
その他にも、2月の節分会、信行会・御会式(11月2・3日)・ほうろく灸など、一般人の参加も多い、地域とのつながりを大事にした行事や施設が多いのに驚きました。
戸田住職には、取材を快く引き受けていただき、優しくユーモア溢れる説明と境内の諸施設の案内をしていただき、本当に楽しい時間でした。ありがとうございました。
たてみーな
妙福寺の山門から参道を進むと仁王門があり、そこをくぐると、緑あふれる境内にいくつもの建物があることに目を見張りました。ご住職は、妙福寺の創建当時から現在までの歴史を面白いエピソードも交え説明して下さり、とても分かりやすかったです。中でも、天台宗から日蓮宗に改宗した時の問答の逸話は、当時としては反対もあったでしょうし大変な大改革だったことを思うと、その強い思いや純粋さに感動しました。
妙福寺には、山門、仁王門、祖師堂、本堂、鐘楼、庫裡、鬼子母神堂、がありその格式の高さがわかります。平安時代はこの辺りは武蔵野の原野だったはずなのに、なぜこんな立派なお寺ができたのか不思議に思い聞いてみましたが、白子川流域のこの辺りには、当時から豊かな集落があったことがわかっているそうで、お話を聞き、一気に当時の風景がよみがえりました。そういえば妙福寺の側には白子川が流れています。
地域住民にも親しまれ、昔は小榑のかご市・関のぼろ市といわれ賑わっていたそうです。現在は、毎年11月2・3日に御会式(日蓮さまの命日の法会)が行われているそうで、この法会には誰でも参加でき、祖師堂にある日蓮聖人の御像も拝めるし、鐘つきもできるそうで、ぜひ訪れたいと思いました。身近な場所に、こんなに歴史を感じさせるお寺があることを知り、とても驚きました。

サポーター紹介

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