サポーター体験記
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練馬区を横断する“見えない川”、千川上水と千川通りの秘密に迫る

練馬区を横断する“見えない川”、千川上水と千川通りの秘密に迫る
千川通りの名前の元となる“千川上水”は
練馬区では南西に位置する関町からスタート!

全長およそ9km、千川通りの通称で親しまれる都道439号線は、
南長崎6丁目から始まり、練馬区上石神井1丁目を横切り、
なんと豊島、練馬、中野、杉並と四つの区に跨ります。
練馬区民であれば、誰しもが一度は通ったことがあろうあの通りについて、
シニアナビサポーターが取材してきました。

地域文化部 文化・生涯学習課 伝統文化係

※以下、文中敬称略。
※取材はコロナウイルス感染症の予防対策に十分配慮し、行われています。
取材ご担当:係長 渡邉 嘉之さん(学芸員)

所在地
練馬区豊玉北6-12-1
電話
03-5984-2442
URL
https://www.city.nerima.tokyo.jp/kankomoyoshi/annai/rekishiwoshiru/rekishibunkazai/index.html

千川上水は、上水と呼ばれているのに、練馬では一切飲まれなかった?!

――はじめに、千川の由来や作られた目的など、基本的なところを教えてください。

 文化・生涯学習課伝統文化係長の渡邉さん
学芸員の肩書ももち、歴史のプロ
文化・生涯学習課伝統文化係長の渡邉さん
学芸員の肩書ももち、歴史のプロ

渡邉 「はい。では、千川上水の成り立ちからご説明しますね。
千川上水は、元禄9年、つまり1696年に開削されました。
ただ、誰がどのように作ったか?の詳細は、実はあまりわかっていません。
作られた経緯ですが、もともと千川上水は、玉川上水から今の武蔵野市・西東京市境、
かつて上保谷新田と言っていましたが、ここで分水し、
江戸の北側の地域の飲み水として利用する目的でつくられました。
江戸の中程にある本郷やその下流の神田、浅草あたりでは、実際に飲み水として使っていました。


“上水”とついていますが、練馬地域では飲み水として使われておらず、農業用水として使っていました。
昔からここにお住まいの方はご存知かもしれません。
千川上水は将軍徳川綱吉が、小石川御殿(今の小石川植物園のあたり)に
遊びに行く時の飲み水として準備されたとも言われています。
その後、幕府の方で、上水を管理・統制する関係者が多いと色々面倒なので、
その権利を取り上げてしまい、神田上水と玉川上水だけに統合しよう、となりました。
千川上水も廃止の対象になりかけましたが、結果、残ったんですね。
なぜかといえば、当時の練馬の地元の人たちが、『農業用水として使わせて欲しい』と嘆願したためです。
江戸への飲み水・上水としての機能は無くなるのですが、農業用水として残りました。
ですので、この辺りに昔から住まれている方は“千川上水”と呼びながら、
農業用水、という不思議な理解をしているというわけです。

 なるほど!だから“千川上水”なんですね、
納得しました
なるほど!だから“千川上水”なんですね、
納得しました

千川上水の面白いところは、普通、川って低いところを流れますよね?
練馬区は、それほど大きな起伏はないのですが、千川上水は実は練馬の地理的に、
また人工的でなく一番高いところを流れているんです。
江戸の中心地にうまいこと流すために、
練馬区で高低差が少ないルートを選んだ結果、このようになりました。
千川上水は農業用水なのですが、畑にはほとんど使われていなく、
この上水からさらに分水を引き、低いところの田んぼに使われたようなのです。
そんな歴史があります」



――生活や仕事のために大切なものだったのですね。


渡邉 「ところが良いことばかりでもないんです。
千川上水は、幕末の時代には、王子のあたりにあった大砲工場の動力としても使われたらしいですし、
その後も製紙工場(王子製紙)などの動力など、工業利用として使われるのですが、
練馬区では、農業が優先で、江戸時代はなかなか動力として使われませんでした。
そのため練馬区には、水車小屋はあまり多く造られていません。
明治期以降は製粉・精穀の動力として少しは利用されるようになりますが。
また、生活に密着しているとはいえ、近代・現代になり、宅地化が進んでくると、
周辺住民は様々な感情で受け止めていたようですよ。
現在でこそ、水辺環境などは生活環境の一つとして見直されていますが、
当時は大雨が降れば氾濫しますし、一番怖いのは、水が多い時期はそこそこの水流がありますから、
小さな子供が流されてしまう、ということです。
そのため近代になると、農地が減り、動力の主流が電気に代わり、さらに危険でもある。
じゃ、水路=暗渠(あんきょ)化しよう、となるわけです」

状況証拠を集めて「文献の行間」を埋める、これが歴史の面白さ!

渡邉 「次に“千川”の名前ですが、いろいろなものに、
千川家が仙川村(現在の三鷹市・調布市内)の出身であった、
など書いてあるのですが、実は正確なことはわかっていません。
その典拠は当時の幕府の役人が書いた記録なのですが、その史料の元となるものは、
千川家が自分の家の歴史を書いたもので、それを参考にした、と言われています。
しかし、開削当時の史料を見ると、『千川上水の開削を請け負いますよ』という
文書(もんじょ)に名があり、その後千川家と称する家は4軒ありまして、
播磨屋、和泉屋、加藤屋、中嶋屋、と名乗っています。
調べると播磨屋や和泉屋という屋号は、上方(かみがた)の地名なので
そちらの出身のようで、史料を残した千川家の播磨屋は
現に開削した頃は姫路出身、と名乗っています。
また千川という名称も村の地名ではなく、
冒頭に『千河より本郷迄の御上水御普請を請け負う・・・』とあり、
普請工事の経路の起点である玉川上水から引水する場所の地名のことなんですね。

 こちらが、千川家に残る古文書を
現代意訳した、普請工事に関する資料
こちらが、千川家に残る古文書を
現代意訳した、普請工事に関する資料

いろいろなものには上保谷新田の方から千川上水を引いている、と書いてあるのですが、
そもそも上保谷新田という地名自体は江戸時代から存在しますが、
千川上水の開削時からだいぶ後に誕生しますので、開削当時の地名としては正確ではなく、
あの(上保谷新田)辺りはかつて千川郷、と呼ばれていたらしいのです。
私はそれで、千川上水という名称になったのではないか?と考えています。
その普請工事の後、幕府からご褒美として、川を管理する役目の時は、
武士の身分として、千川と名乗っていいよ、という許可が出たんです。
最初千川上水が開削される前、播磨屋たちは、本郷の方に住んでいました。
上水を管理するためには、江戸の街中にいた方が都合が良いからです。
これが廃れて農業用水として使われるようになると、
播磨屋と和泉屋が千川を管理する権利を与えられて、播磨屋は下練馬村、
つまり今の北町あたりに引っ越してきたようです。
後に、自分の家の歴史を残す時に、上方出身というよそ者よりは、
地元出身・農村出身と名乗った方が、周りのウケも良かったのでは無いかな、なんて推測するんです。
ただ、妄想や全くの当てずっぽうではなくて、状況証拠と言いますか、
確からしさというのは歴史の読み解きには必ず必要となります。
いずれにしましても、千川村の出身で無いことは確かで、こういった文献の行間や、
背景を補完することは、歴史の楽しみ方の一つかもしれません」



――区の広報物としては、面白おかしく書けない部分も多いとおもいますが、
私たち素人が聞く限りでは、実に興味深い話ですね。
お馴染みの千川通りにそんな背景があるなんて、区民のほとんどは知らないのでは無いでしょうか?


渡邉 「雑談になりますが、この千川徳兵衛さんの家、というのはかなり面白い家でして、
ずっと千川上水を江戸で管理していて、農業用水となってからは、下練馬村に行く。
明治期以降も東京府から用水としての千川上水の管理を任されます。
偶然かもしれませんが、その子孫にあたる方も、水道を管理する職に携われたと伺っています。
不思議な偶然ですよね」

 千川上水の年度別の配管工事の
情報もご準備いただきました
千川上水の年度別の配管工事の
情報もご準備いただきました

渡邉 「ところが、上水を作る時も暗渠化するときもそれほど時間はかかっていないんです。
この表に暗渠化した年代が書いてあります。
数字だけ見ますと、およそ25年かかっているのですが、
実はこれは工事の都合ではなく、予算の関係なんです。
この暗渠化は戦前から始まっております。
宅地化が早いところは暗渠化も早いです。
また、千川上水の管理区分が板橋区になったり東京都になったりと、
かなり目まぐるしく入れ替わるんです。
こういった規模の事業は、広域行政でないと難しいということで、
戦後は東京都が一括して行うことになります。
その意味では、工事そのものの技術的な苦労よりも、
計画や調整面での苦労が多かったのでは、と思います」

先人からのバトンをつなげ!千川上水・千川通りの新しい楽しみ方

――実は私、興味を持ちまして、図書館で古地図を探しました。
練馬駅周辺に関する、何か面白い話はありますでしょうか?

 サポーター自ら、図書館で練馬の古地図を
閲覧、行動あるのみ!
サポーター自ら、図書館で練馬の古地図を
閲覧、行動あるのみ!

渡邉 「面白いかどうかは分かりかねますが、千川上水は、昭和15年くらいの写真と
昭和27年くらいの写真、そして今とほぼ完全に比較ができる、という特徴があります。
なぜこの比較が可能か、と言いますと、昭和15年頃には、
武蔵高等学校(現武蔵大学)に熱心な先生がいまして、今の歴史クラブの前身なのですが、
子供たちを引き連れて調査を行っているんです。
千川上水だけでなく、練馬の街並みもあちこち写真に収めています。
ここに、まだ完全に暗渠になっていなく、
部分的に暗渠化が始まっている様子を確認することができます。
一番わかりやすいのが、筋違橋(すじかいばし)のあたりです。
今も乾物屋さんがある場所ですが、ここが撮影のポイント地点になっており、
各時代で撮影を続けています。
この橋は、当然なくなっているのですが、この橋を模したモニュメントが今も残っています。
このように、写真や昔の資料から今と昔を比較的はっきりと、
比べることができるのは、千川上水の面白い特徴の一つだと私は思います」

 橋は取り壊されていますが、この親柱は
今も現場に残されています(復元)
橋は取り壊されていますが、この親柱は
今も現場に残されています(復元)

――なるほど。。古地図を見ますと、それだけでも街の変遷がわかります。
かつて商店であった場所が、住宅地になっていたりなどが明記されていますからね。
写真もあると、グッと情報が立体的になりますね。


渡邉 「まさにその情報も写真にちゃんと残っています。
例えば練馬区でも上流側の地域を見ると、同じ時代でもほら、
自然が多く残っている感じでしょう?ところが街中の方、
富士見台の駅のあたりに行きますと、途端に緑がなくなり、建物ばかりになるんです。
写真が豊富に残っているというのは、とても貴重ですし、
景色をよりイメージし易いですから、街を歩いて楽しむことができると思います。


もっとマニアックな話をしますと、この千川家というのが、
おそらく記録の一部として、幕府に報告するための絵図面を豊富に残しているんです。
先ほど、千川上水は高台を流れている、と言いましたが、この地図を見ても、
千川上水の周りには田んぼはなくて、ここから分水して、
低い方にある田んぼに水を引いているのがわかります。
水が足りない時期は、分水の方法にも決まりがありまして、
『何分開き』などとルールがありました。
つまり、上流の方であまりたくさん開けてしまうと、下流まで水が行かないんですね。
水による争いが起こらないために組合を作って、ルールを決めて、
それを統治・管理していたのが、千川家、という訳なんですね。

 肉眼ではほぼ認識不可能な、1mm以下の
土手の印(中央の円青い川の左端)
※★はおおよその位置
肉眼ではほぼ認識不可能な、1mm以下の
土手の印(中央の円青い川の左端)
※★はおおよその位置

千川上水は、江戸の街中に最も効率よく引くために、結果的に
練馬の高いところを通ることになったのですが、うまく行かない箇所もあります。
例えば上石神井1丁目2、3の場所に歩道がありまして、
ここは車道が低くなっており、歩道が高くなっているんですよ。
どういう事かと言いますと、車道がかつての自然そのままの谷底の地形で、
歩道が上水工事のために、谷を埋めるため盛り土をしたため高くなっています。
自然地形のままでは、谷底に千川上水の流路が下ってしまい水は流れませんので、
土手を築いて、水が流れるようにした名残なんですね。
この情報も、絵図を見てください。
ほらここ、ちーーいさく、何か描いてありませんか?これ、実は“土手”の印なんですよ。
わざわざ土手を作って、千川上水がうまく流れるようにしたんです」



――様々なことがわかるのですね!
最後に、現在、川の姿はどこかで見ることができるのでしょうか?


渡邉 「武蔵大学は千川通りに沿って敷地がありますから、構内に千川上水の分流跡があります。
学園でとても綺麗に管理しており、現在では学生の憩いの場になっているようですよ。
頼めば桜の季節などに見学することができます。
本当は中新井村分水路、というのですが、“濯川(すすぎがわ)”という美しい名前もついています」

 豊富な知識から、様々な千川上水の秘密が
出てきて、さながら楽しい講義の時間です
豊富な知識から、様々な千川上水の秘密が
出てきて、さながら楽しい講義の時間です

――渡邉さんは「千川通りの歴史を知らないで歩くとただの道ですが、
知って歩くと途端に面白くなる」とおっしゃっていました。
何より渡邉さんご自身がとても楽しそうに千川の歴史を語っていた姿が印象的でした。
今回教わった知識は、練馬区に住んでいても、知らないものばかり。
友人にも自慢できる?!内容であったと思います。
再確認しに、カメラ片手に千川通りを歩いてみたいと思います。

サポーターの取材後記

豆柴
毎日利用する千川通り、某日、練馬から南長崎の案内標まで一時間の散策をした。歩道は広く歩き易く安全にも配慮されている。桜並木も素晴らしい。昔は千川が流れ暗渠化され今は道路になり人が行き交う。色々と興味が湧きこの度 、幸いにも郷土史の権威、渡邉氏に話を聞く機会を得た。
私は事前に石神井公園ふるさと文化館や図書館の備付資料も事前に調べておいたが、各種資料も豊富に準備いただく。それに基づき丁寧な説明が1時間半、氏は熱心の余り、時に立ち上がり、また拡大鏡を使い細かい地図でポイントを指すなど、素人でも分かり易い説明で、ただ歩くだけよりも背景・沿革などを知れば面白さ、興味は増すのではないかと思われる。商店街を歩きながら、昔の写真と比較すれば人々の生活の変化も偲ばれ、今、多くのスポットを訪ねるべく計画を練っている。とりあえず武蔵学園構内の残された源流を見たい。皆さんにも心と体をリフレッシュ、好きな季節に好きな時間に手軽な散策をお勧めしたい。
ヒロちゃん
日頃、千川通りを生活やウォーキングに頻繁に利用し、特に桜の時期は毎日楽しみ、近隣に住む幸せを感じています。こうして何気なく通行している千川通りが、江戸住民への飲み水供給を目的に上水が造られ、その後、練馬周辺住民の増加による都市問題への対応から暗渠化されたという、歴史的に大変な深みがある事を知り、まさに「目からうろこ」の思いでした。今回お世話頂いた渡邉さんには、豊富な資料をご準備のうえで、大変分かりやすく、わくわくするご説明を頂き感謝しております。特に、千川通りは昭和15年からの写真が数多くあるとの事で、同じ場所の写真の新旧の違いを比較してお示し頂き、大変面白かったです。また、私は千川通り近くに住んでおり、富士山が良く見える事を楽しみ、不思議にも感じておりましたが、千川上水は高台(尾根)に造られたとのお話を伺い、「納得!」でした。
練馬区の南端をほぼくまなく横断する千川通り。今回、たくさん教えて頂いた見どころ・スポットを、後日ゆっくり訪ねたいと思います。

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