サポーター体験記
232

⽯神井地域と⽂豪の不思議な関係、なぜ⽯神井地域に⽂⼈は集まったのか?

⽯神井地域と⽂豪の不思議な関係、なぜ⽯神井地域に⽂⼈は集まったのか?
緑に囲まれた、石神井松の風文化公園管理棟に
ふるさと⽂化館分室はあります。

⽯神井公園の緑を核とした、練⾺区で⼀際閑静な佇まいを⾒せるこの地域には、
かつて実に多くの⽂⼠や⽂豪、芸術家が集まりました。
静かな反⾯、東京の中⼼部からはやや離れたこの場所に、
なぜ彼らは魅せられたのでしょうか。
蝉の鳴き声もどこか落ち着きはじめた夏の終わりに、
ふるさと⽂化館分室を訪ねました。

練⾺区⽴ ⽯神井公園 ふるさと⽂化館分室

取材ご担当:分室⻑/⼭城 千惠⼦(やましろ ちえこ)さん
※以下、文中敬称略。
※取材はコロナウイルス感染症の予防対策に十分配慮し、行われています。

所在地
177−0045 練⾺区⽯神井台 1-33-44(⽯神井松の⾵⽂化公園管理棟内)
電話
03-5372-2572
URL
https://www.neribun.or.jp/furusato.html
開室時間
9 時〜18 時
休室⽇
⽉曜日(祝休⽇の場合は、その直後の祝休⽇でない⽇)、年末年始、臨時休館日

⽯神井地域の作家といえば誰?その選出⽅法の秘密!

⽯神井地域の作家といえば誰?その選出⽅法の秘密!  ⼭城分室⻑から、様々な
お話しを伺いました!
⼭城分室⻑から、様々な
お話しを伺いました!

⼭城 「今、ふるさと⽂化館で展⽰している、区ゆかりの作家は、42名です。
これは、練馬区の基準に基づき、紹介しています。
⽂化⼈の括りは広く、作家はもちろん、⾳楽家、美術家、芸能者、
学者に評論家などたくさんいらっしゃいますが、 ⽂化勲章や紫綬褒章など、国から何らかの表彰を受け、
かつ、皆さんに広く知られている⽅、 という基準があり、オープン当初のご紹介は40名でした。

ふるさと⽂化館分室は 2014 年にオープンしており、最初の展⽰は、区で選定しました。
しかし、選定にあたって、国から表彰等されていなくても優れた⼈はたくさんいらっしゃいますし、
その中には、 そもそも賞を断る⽅もあります。松本清張が一例です。

彼は国からの表彰こそ受けていませんが、松本清張を抜きにして
ふるさと⽂化館の展⽰を考えることはできないと思い、 区と協議して加えていただきました」


――そのあたりには現場の裁量があるのですね。
どのようにして「ゆかりの文化人として」取り上げているのでしょうか?

⼭城 「私たちも折に触れ、これからご紹介・展⽰をする候補の⽂化⼈を調べていますが、
調べ始めるともうすごい⼈数が出てくるんですね。
美術家も多いですが、中村橋に美術館もありますので、美術家の紹介はそちらにお任せしています。
それから、科学などの分野で実績を残されている⽅も多いのですが、私どもの理解⼒が追いつかず、
専門性もあるのでこの分野も⼿をつけていません。

ふるさと⽂化館の展⽰は今年の4⽉から2名増えて42名になりました。
⼀⼈目は⺠謡歌⼿の原⽥直之さん、⼆⼈⽬は、文豪で実業家の菊池寛です。
昔、菊池寛の別邸が⽯神井台にありました。
今は教育委員会が設置した案内板 があります。
文化人については今後区と協議をし、さらに追加する予定です。
ご家族・ご遺族の⽅に許可を得るなど、段取りがありますので、
⼀度に何⼈も、というわけにはいかないのですが、 ゆかりの⽂化⼈は、このように増やしていっております」

⽯神井で綴られた、⼼に残り続ける⽂章や詩(し・うた)の数々

――⽯神井近辺ではどのような⽂⼠が居たのでしょうか?
まず私たちが思い浮かべるのは檀一雄ですが…。



⼭城 「⼩説家を思い浮かべる⽅が多いですが、実は詩⼈・俳⼈もとても多いです。

ビッグネームでいえば、草野⼼平です。
ふるさと⽂化館から井草通りを上井草の⽅に向かうと、御嶽(おんたけ)神社があるのですが、
あそこの社務所に昭和 20 年代に、居候していたこともあります。
あの⾵貌ですから、神主に間違えられることもあったそうですよ(笑)。
檀⼀雄とも友⼈で、檀が亡くなる直前に草野⼼平から
病床の檀へ送られた励ましの電報も、この展⽰室で紹介しています。(令和3年3月末まで)

 檀⼀雄と草野⼼平の友情・繋がりを感じさせる貴重な資料
檀⼀雄と草野⼼平の友情・繋がりを感じさせる貴重な資料

この冊⼦(下記、企画展冊⼦“うたに⽣きる”)に他にも様々な詩⼈をご紹介しています。
また、⽯神井ではないですが、⼭下達郎さんや尾崎豊さんも練⾺区ゆかりであるのは、もはや伝説になっていますね」

 いわゆる歌⼈だけでなく、歌⼿が綴る 
「詩(うた)」も掲載している点がユニーク
いわゆる歌⼈だけでなく、歌⼿が綴る
「詩(うた)」も掲載している点がユニーク

――この冊⼦には歌詞も掲載されているんですね。

⼭城 「歌の中の詞も、皆の⼼に残ることばという意味では⽂学性があるので、取り上げています。
俳句では、⽯⽥波郷(いしだはきょう)というビッグネームも存在します。
⾼野台の⻑命寺近くにご⾃宅があり、そのご縁と思いますが、高野台には俳⼈がとても多いですね」

⽯神井公園は当時の⼀⼤リゾート地だった?!

――なぜこれほどまでに多くの⽂化⼈・俳⼈が練⾺に集まったのでしょうか?

⼭城 「不思議ですよね。私も同じことを思いましたので、調べてみました。
引っ越しの際にこの地を思い浮かべる⽅ももちろん居るとは思いますが、
⼤きな理由のいくつかは、地価・家賃が安かったこと、 そして雑誌の編集者の⽅が、この沿線に多かったことが考えられます。

⼭⽥⾵太郎(時代⼩説家)のエッセイを読んでいても、
編集者が『ちょうどいい物件がある』と、⻄⼤泉を紹介された、と書いて あります。
編集者からすると、近くに作家がいると、原稿を取りに⾏くときとても楽なんですよね(笑)。
そんな現実的な背景もあったようです。

 ⼭城さんの傍には、⽯神井・練⾺の 
⽂学に関する資料が⼭積みに!
⼭城さんの傍には、⽯神井・練⾺の
⽂学に関する資料が⼭積みに!

それよりももっと前にさかのぼると、旧東京市街は、関東⼤震災や戦争の影響もあって、壊滅的な被害を被るんですね。
そうすると新し い郊外を求めて、芸術家が移り住んでゆくと⾔う流れはありました。
その流れの下敷きとなるのが、鉄道が開通したことです。
⼤正3年が東上線、⼤正4年が武蔵野鉄道です。
⽯神井公園駅の駅前に火⾞站之碑(かしゃたんのひ)があるのですが、
あれが建 ったのが⼤正9年だそうです。
このように、電⾞に乗ってすぐに⾏ける⾏楽地であった点、それと同時期に東京市が⽯神井公園を⽇帰りの⾏楽地、
今でいうリゾ ート施設に開発する流れもありまして、東京府営⽔泳場もこの地にできました。
⻄へ⻄へと若い⼈たちが移ってきたのは、お⾦の⾯もあるでしょうが、東京の匂いがない、
清新な場所や⾃由な⾵⼟を求めていた こともあるのではないかと思います」

檀⼀雄、松本清張と⽯神井・練⾺地区のゆかり

⼭城 「檀⼀雄は、⽯神井公園で昭和 12 年に太宰治や⾃分の妹も交え数名で、
“⻘春五⽉党”と⾔うサークルのような会を結成しました。
太宰と遊んだ思い出があまりにも素晴らしかったということで、
ここ⽯神井公園に住みたい、と考えたそうです。
その根底にあるのが、清らかな⽔で、実は檀さんは⽔泳が⼤好きで、
⽔がないと⽣きていけないような⼈だったんですね。
お⽣まれも北九州の柳川の⽅で、沖端という漁村で⾙を獲ったりですとか、
⾃然と親しんで⽣活していました。
懐かしい水辺の風景や、静かで集中できる環境が気に入ったのではないでしょうか。

檀さんは、ものすごく求⼼⼒のある⽅でした。
今でも練⾺や⽯神井といえば、檀さんの名前が真っ先に出てくるくらい影響⼒のある⽅で、
その交友関係も広く、“檀流クッキング”で毎晩酒盛りという状況もあったようです(笑)。
いずれにしても、誰もが好きになる⼈物のようでした。
芥川賞作家で大泉学園町に長く住んだ五味康祐さんも昭和27年に⼤阪から上京する際に、
お兄さんのように慕っていた檀さんのいる⽯神井に住み、
この地で芥川賞を受賞するわけです。
五味さんは『僕は練⾺から離れない』といって、
⽯神井の中で転々とし、⼤泉の豪邸に住みました。
ほんの⼀握りのエピソードですが、檀さんに吸い寄せられるように
⼈が集まってきた、というのはあるのかもしれません」


――旧東京市の開発の影響もあり、この地に⽂⼠が吸い寄せられるように集まってきた流れは、
確かにあったのかもしれないですね。
檀さんが亡くなってからは、作家の皆さんは離れていったりしたのでしょうか?

⼭城 「檀さんが亡くなったのが昭和 51年です。
⽯神井⽂⼠の最後の⽣き残り、と⾔われた眞鍋呉夫(まなべくれお)さんは、
檀さんを尊敬し続けて、ずっとそばに住んでいました。
眞鍋さんは 92 歳で亡くなるのですが、
その後はそういうまとまりのようなものは無くなってしまいました。
皆さん、若い時分に⽯神井に住むことが多くて、功なり名を遂げると、移り住んでしまう⽅も多くて。

ただなぜか、誰かが越してきては直⽊賞や芥川賞を獲ったりという時期があったことは印象的です。
例えば五味さんは、⽯神井に越してきたのが昭和27年で、翌28年に芥川賞を、
庄野潤三(しょうのじゅんぞう)さんも昭和 30 年、芥川賞を受賞しています。
檀さんも直⽊賞を受賞しています。
⾊々調べて年表などにまとめていくと、ここ⽯神井で受賞するか
あるいは候補になるという不思議な事実が続きます。
昭和20年代から30年代は、ルネサンスの時代のように、
⼀時期⼤きな塊となってここに集結していた、そんな印象ですね」


 

 松本清張の代表的な作品、これらが   練⾺区在住時に⽣み出されていたとは
松本清張の代表的な作品、これらが 練⾺区在住時に⽣み出されていたとは

⼭城 「松本清張はいわゆる⽯神井⽂⼠ではないのですが、関町や上⽯神井に住んでいました。
現在、ドラマや映画になったりしている作品、
例えば“砂の器、ゼロの焦点、⿊い福⾳、⿊い画集”など、著名な作品の多くが練⾺で書かれています。
いま出ているふるさと⽂化館ニュースのコラム※で松本清張をご紹介していますが、
彼は練⾺時代にものすごい量を書き上げているんです。
ある計算によると、1⽇24時間の間に、これだけの執筆量をこなすには、
⾷事には1分20秒しかかけてないとか、排泄は十数秒だ、とか、
とにかくそのくらい驚異的な執筆量で、書きすぎで、
腕が痙攣してしまう書痙(しょけい)という病気にもかかってしまいます。
それでも書き続けていました。
その後は杉並の浜⽥⼭に引っ越されてますが、
40代半ばの遅い出発の後、爆発的に書いた時代は練⾺にいた6年間でした」
※Vol.38(取材⽇は令和2年9⽉2⽇)


――⽯神井という場所は、ある種の⻘春のエネルギーのようなものを爆発させるような、
そんな⾵⼟があったんですね。

⼭城 「そうそう、そうです。私も常々不思議だなぁと思います。
芸術を志している⽅が、⽯神井やこの近辺で何らかの⾜がかりを掴んで、
巣⽴っていっています。
瀬⼾内寂聴さんもかつては練⾺区⾼松に住んでおり、
映画にもなった“夏の終わり“の元になった⼩説を書き、
賞をもらって作家として⽣計を⽴てられるようになったと。
以前、講演会で来ていただいた時に『練⾺⽅⾯には、⾜を向けて眠れない』とおっしゃっていました」

⽂学からさかのぼり⽯神井の地名の由来まで、⽯神井はパワースポットだった?!

⼭城 「そもそも⽯神井、という名前が不思議だと思いませんか?
民俗学者・柳⽥國男の作品に“⽯神(いしがみ)問答”があるのですが、
その中で⽯神(シャクシン・シャクジ 等)という⾔葉を考察しています。
各地⽅の⽅⾔等によって微妙に異なりますが、「シャクジ」に類する⾔葉が、
特に東⽇本には多く、これはどうも最近できた⾔葉でなくて、古代語のようだと。
…というのを柳⽥國男が書いています。

最近では中沢新⼀さん(宗教史学者)が書いた
“精霊の王”という本をたまたま⽬にしました。
それによると、「シャクジ」「シャクシン」という名の地には
⽯の棒を御神体とする神様が祀られて、その⽯の棒の神様がいること、
⽔が湧き出ていること、巨⽊があること、というのが、東⽇本を中⼼に全国各地に散らばる、
⽯神(しゃくじ)と呼ばれる場所に 共通している要素だそうです。
なおかつ諏訪神社があることも条件です。練馬区の石神井にも共通しています。
「シャクジイ」は大和朝廷ができる以前の古代語なのではと書いています。

 今まで意識しなかった⽯神井近辺への興味が湧くお話しです
今まで意識しなかった⽯神井近辺への興味が湧くお話しです

これらの論は⼀つの仮説ですが、様々調べていくと、
⽯神井は名称の古さ、伝承の古さも持っており、
何かがあるからこの地名ができており、
実はすごい⼒のある場所なのかもしれないな、と思うわけです。
そう考えると、⽯神井という地名や
⾃分達が⽣きているこの場所が⼤切な場所に思えてきます。
出⾝地が異なる様々な⽂⼠たちが、これを意識していたとは思えませんが、
何かの魅⼒に惹かれてここに集い、芸術家として⼤成する。
それ以前にそもそも後世に残る素晴らしい作品を書けるようになっているというのは、
何とも魅⼒的なことですよね」

 最後に、常設展⽰もご案内していただきました!
 話を聞いた後ですと、展⽰も違って⾒えます
最後に、常設展⽰もご案内していただきました!
話を聞いた後ですと、展⽰も違って⾒えます

――⼭城さんには、⽂学の話はもちろん、⽯神井の地名にまつわる話まで、
実に多彩で魅⼒的なエピソードを交えたお話しを聞く ことができました。
今までイメージだけで⽯神井エリアを「良いところ」と感じていましたが、
⾔葉にできないこの雰囲気には、過去の歴史からの特別な思いや
エネルギーが詰まっていると感じた取材でした。

サポーターの取材後記

モナカ
三宝寺池近くに建つふるさと⽂化館分室⻑の⼭城さんのお話は、汲めども尽きぬ、まさに三宝寺池の湧⽔のよう。⾯⽩く魅⼒に 溢れ、読書に浸った若かりし⾃分に戻してくれた清新な時間でした。特に印象に残ったのは、⽯神井に⻑く住んだ檀⼀雄について のお話です。太陽のように明るく、爽やかで、⼈間としての器が⼤きく、⼈に対する愛情が深く、「男が惚れる男」だったそうです。 彼を慕ってたくさんの⽂⼠(太宰治、草野⼼平、坂⼝安吾、眞鍋呉夫等)が集まり、珠⽟の作品群が世に送り出されたことで、⽯ 神井⽂⼠という⾔葉も⽣まれました。「⽯神井」の地名は、井⼾を掘った際に出⼟した⽯の棒を神様として信仰したことに由来するといいます(これも初⽿!)。森と泉が美しい⽯神井の地は、若い芸術家たちのポテンシャルを引き出す⼒を持っているのだと思いました。
れんげそう
当⽇は予定より少し早く着いたので、館内の展⽰を前もって⾒ましたが、古ぼけた⽂書の通常の展⽰と思いきや、⼭城さんのお話を 聞いて、とても⾯⽩いものに変わりました。学芸員でもある⼭城分室⻑に、保存・展⽰はもちろんのこと、普段から、もっともっと 来館者に直接説明してもらえたら楽しいのにな、という感想を持ちました。また今回の取材では、松本清張が、その作品のかなり の部分を⽯神井で書いたということを初めて知りました。分室は、⽯神井中⼼の紹介のようですが、練⾺には、そのほかにも、か なりの⽂化⼈がいるとのこと。もう少し地域的な幅を広げて、練⾺全体を調べて整理すると、さらに練⾺区の開発と発展の歴史 が⽬に⾒えるようになるのではないかと、感じた取材でした。

サポーター紹介

おすすめの体験記