サポーター体験記
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明治~大正、そして昭和。津田青楓に自由な生き方を学ぶ

明治~大正、そして昭和。津田青楓に自由な生き方を学ぶ
今回は私たち3名が、
練馬区立美術館からお届けします!

昔の本の、丁寧な装丁を目にしたことのある方は多いのではないでしょうか。
現代の手軽な文庫や書籍では失われた、繊細かつなんとも味わい深い文化です。
漱石の本の装丁も手掛けた「津田青楓(つだせいふう)」は美術家と職人、
両方の気概を持つ稀代の作家でしたが、意外なことに
その多方面に秀でた才能を回顧する展覧会は開催されていません。
私たちの練馬区立美術館で、令和2年の2月21日(金)から
開催している展覧会にお邪魔しました。

練馬区立美術館

ご担当:学芸員 喜夛(きた) 孝臣さん
※以下、文中敬称略。

所在地
練馬区貫井1-36-16
電話
03-3577-1821
FAX
03-3577-1824
URL
https://www.neribun.or.jp/museum/

なぜ今、津田青楓なのか?区立美術館が注目した理由は?

――まず、展覧会を観覧させていただきました!
250点あまりの津田青楓の作品や関連資料が一堂に会す展覧会は、初の試みです。

 夏目漱石「三四郎・それから・門」
の美しい装丁
夏目漱石「三四郎・それから・門」
の美しい装丁
 現代にも通用するような、モダンで
色彩豊かなデザインのワケは?
現代にも通用するような、モダンで
色彩豊かなデザインのワケは?

――私、実は美大を出ているのですが、青楓のことを寡聞にして知らなかった。
まず、なぜ今、津田青楓展を開催するのか?その意図をお聞かせいただければと思います。


喜夛 「はい。まずこの美術館が今までどういった展覧会を行ってきたか?からご説明しますね。
練馬区立美術館は、東京都の中では郊外にある方だと思います。
都内には大きな美術館がいくつもあって、様々な催しを開催しています。
私たちの美術館の一つの意思・柱として『他がやらないことをやる』という点があります。
日本の近代洋画における異色ある作家は、これまでも重点的に取り上げてきました。
その中で今回、津田青楓という画家が出てきました。
美術の歴史・当時のことを調べると、よく名前が出る作家です。
幅広い仕事をしていますし、彼自身、文章を沢山書いていまして
様々な場面で使われる(出てくる)作家なのですが、
こういったとても個性的な作家が今まで展覧会が行われていなかったんですね。
そこで私たちが取り上げよう、ということになりました」

 学芸員の喜夛(きた)さん、お顔は
イラストを少しほっそりさせた感じです
学芸員の喜夛(きた)さん、お顔は
イラストを少しほっそりさせた感じです


喜夛 「今なぜこの作家を、ということですが、様々な意図がありますが、
その一つに彼の“幅広い挑戦”に注目したから、と言えると思います。
これまで美術館で企画されてきた作家さんは、どちらかと言えば、
一つの事をなし遂げてきた、生涯同じことをやってきたタイプの方が多いのですが、
その点彼は、様々なことをやってきているがために、展覧会になりづらかった作家と言えます。
今日では、美術そのものの考え方が広がっている中で、
様々なことに幅広く目を向けて挑戦してきた人物を取り上げることに
意義があるのでは?という思いから、開催しました」



――なるほど。彼の洋画塾の弟子である、オノサト・トシノブさんや北脇昇さんらは知っていましたし、
展覧会もたくさん行ってるのですが、お師匠さんである、
津田青楓の展覧会はほとんどやっていない、という点にびっくりしました。


喜夛 「そうですよね。青楓自身が若い頃から色々なことに挑戦するタイプでしたので、
おそらく洋画塾で教える時も『こういう風にあらなければならない』という教え方はしていないと考えられます。
塾の弟子には自由に教えて彼らの表現の幅を広めますが、青楓自身は様々なことに着手していますので、
(もしかすると一つの分野への掘り込みに差が出て、)塾生のほうが有名になっているのかもしれませんね」

年齢や経験に関係なく分け隔てなく付き合う、青楓の魅力的な人柄

――展覧会を拝見するなかで、彼の人間性や人物像にとても興味がわきました。
夏目漱石や河上肇など、錚々(そうそう)たる人物と付き合いがあったのは、
きっと人間的な魅力が物凄くあったのだろうな、と思いました。
一緒にフランス渡った安井曾太郎も、漱石に紹介しています。

 今回、インタビューは特別に美術館の
創作室で敢行、これも貴重な体験です
今回、インタビューは特別に美術館の
創作室で敢行、これも貴重な体験です

喜夛 「間に入って、安井曾太郎の結婚相手を探したのも彼ですから、生涯の付き合いですね。
安井の方がだいぶ年下ですので、青楓のフランス留学が決まっていて、
一緒に学んでいた安井の親が、『(青楓と)一緒に行くなら安心だろう』ということで、
紹介があって一緒に留学しに行く、という経緯があったようです。
青楓は安井を年下という扱いをせず、安井の実力を一番に認めていました。
一緒にフランスで学ぶ中で、安井はすごいやつだ、天才だ!と感じ、
青楓のほうが先に日本に戻るのですが、戻ってからその印象をあちこちで話しました。
安井はその後3~4年修行を続けてから日本に帰りましたが、
そこまでに安井の評価を高め、彼の活躍の場を青楓が準備していたような状況でした。
安井曾太郎がフランスから帰った時に二科会で
特別陳列されることがありましたが、これも青楓のはからいです。
青楓自身は無口なタイプだったようで、傍にいても気を遣わない人物だったと漱石も書いています。
ちなみに岩波書店の岩波茂雄さんも青楓と同じタイプのようで、たくさんの漱石門下生が居る中で
“一緒にいてもこの二人は邪魔にならない”と言われていたそうです(笑)」


――漱石と10歳以上も離れた青楓でしたが、門下生の中で美術家が少なかったこともあり、
また漱石自身が絵も好きだったことから、漱石が彼に質問したり一緒に展覧会にも出かけたそう。
ちなみに青楓自身はいわゆる学校教育は殆ど受けておらず、自身の知識は現場で得たものに加え、
大変な読書家であったらしく、ここから学んだそう。
もちろん、一流の文化人との会話からも多くを学んだことでしょう。

 こちらは、青楓ともゆかりのあった
漱石直筆の文書!貴重な資料です
こちらは、青楓ともゆかりのあった
漱石直筆の文書!貴重な資料です

青楓の挑戦、生活と芸術の両方を模索し続けた

――青楓は世間の評価等は気にしていたのでしょうか?
また彼の画風の幅広さはどこからくるものなのでしょうか。


喜夛 「有名になれば生活は楽になりますから、
彼に限らず多くの画家はそうなりたかったと思います。
青楓は画風を人から真似ることはせず、また誰からも経済的援助を受けず、
独立して生活しなければなりませんから、頼まれたら断る事なく仕事をしていったと考えられます。
刺繍や工芸品であれば、売り物として百貨店などで実際に販売されていました。
彼が美術家となるとっかかりの仕事であった図案の仕事も、生計の糧として、職業としてやっています。
もともと性格的に誰かの指示で働くことは苦手だったようで、
丁稚奉公先の主人から命令されることに嫌気がさして16歳くらいで飛び出し、
自活の道を探るなかで得意な絵の方面に進んでいきました」


――生きる糧としての絵の技術だったのですか。生活美術として柳宗悦の民芸運動とか
ウィリアム・モリスのアーツ・アンド・クラフツムーブメント※みたいなことではなかったんですね。
※・・・1880年代から始まったデザイン運動で、産業革命の結果として生まれる安価で粗悪な商品ではなく、
生活と芸術を統一する主張のこと。柳宗悦の民芸運動は日用品の中に美を見出す
日本独自のものだがアーツ・アンド・クラフツの影響も見られる。


喜夛 「難しいのですが、決して職人仕事で終わりたくない、という思いもありました。
工芸家としてやっていくのではなく、美術家として自分の表現をしていく、と考えるようになっていきます。
生活をきちんとやっていく一方で自分の表現を確立していくことは大事にしていたようです。

 図案一つにも、美術家としての挑戦や摸索、
何よりその自由な雰囲気を感じ取れる
図案一つにも、美術家としての挑戦や摸索、
何よりその自由な雰囲気を感じ取れる


“うづら衣”という彼の図案集があるのですが、それ以前はこれまでにある図案を模倣してつくっていましたが、
この図案集で一から自分の図案をつくることに挑戦します。その時に自然を見て、写生から始めるんですね。
残念ながら、この図案集はあまり売れ行きが良くなく、当初5巻まで発行の予定が3巻で止まるのですが、
このように伝統的なものを仕事としてこなしつつ、美術的なこともやり続けていました。
こうした姿勢は彼の文章の中にもよく表れています」


――表面的には、今でいう工芸デザイナーのようなのですが、
彼自身の中では美術家としての道を模索し続けていたんですね。


喜夛 「見る人が見れば、彼のそういった挑戦は『今までとは違うな』という風に映りました。
藤井達吉という工芸家が居るのですが、彼などは青楓をはやくから評価していたようです。
これが1903年くらいの話ですから、その後日露戦争に兵役し、5年くらいは自分の活動ができなくなります。
スタートが早かった半面、他の美術家との遅れに焦りを覚え、戦争から戻って先のフランス留学に繋がります」

背く画家の意味、そして展覧会開催の苦労とは?

――今回の展覧会のキャッチコピーに、“背く画家”とあるのですが、この意味を教えてください。


喜夛 「彼の生涯を通じた性格的なものを表現しているのですが、例えば若い時に奉公先から飛び出してしまったり、
新しいものを生み出したいと思い続ける姿勢などから、何物にも縛られることなく、しがらみから離れ、自由でありたい。
この想いが生涯を通じて感じられますので、タイトルとしました。
当時は世相的にも、自分の頭で考えて、良し悪しをはっきり言うだけで、いわゆる社会からはみ出してしまう状況でした。
国費でフランス留学までしていますから、そのままにしていれば開けた道もあったのでしょうが、
文部省美術展覧会(文展=現日展)から分離して二科会を作ったり、
長谷川如是閑(はせがわにょぜかん)などは、『彼(青楓)は望めば優雅な暮らしができるのに』とあとあと言っています。
性格的なこともあるでしょうが、嫌な物は嫌だ、と言いたかったのだと思います」


――展覧会を見て、青楓が一番嫌だと言っているのは戦争だと感じました。
また彼の洋画塾には150名もの塾生が居たこと、全く知りませんでした。
当時としてはかなり大きいですよね?


喜夛 「青楓の若い時の戦争体験は、多分に創作に影響していると思います。
それから洋画塾のあった京都という場所は、伝統的に日本画が強いところで、
洋画が強くなかったため、彼に本物の洋画を教えてもらいたい学生がたくさん集まります。
京都で始めたころは50名程度だったのですが、定期的に発表をするようになり、
東京に進出して人数も増えていきます。
いずれにしても、1920年代半ばに京都において洋画を盛り上げた人物の一人ですね」

 1920年作「婦人と金絲雀鳥」、冒頭の
図案を見ると画風の幅広さに驚く
1920年作「婦人と金絲雀鳥」、冒頭の
図案を見ると画風の幅広さに驚く

――この展覧会開催の苦労話などはありますか?


喜夛 「そうですね。有名な画家ですと、それまでに開催した展覧会をベースにできるんです。
どこに所蔵品があるか目途がつきますし、たとえわからなくても
主催した担当者に聞けば、少なくともその手がかりはつかめます。
しかし、今回の場合は、あまり前例のないなかからの構築ですので、この点は苦労しました。
山梨の笛吹市にある青楓美術館、今回特別協力をいただいているんですが、
こちらに始めにご挨拶をし、ご協力を得ることで本格的にスタートしました。これがおよそ3年前ですね」


――今回、漱石をはじめとして、本の装丁が大変すばらしいものでした。
こういったものは全国に沢山残っているものなのですか?


喜夛 「本ですので、その意味では数は多いと思います。
ただ、装丁は難しい面もあって、例えば作家や出版社の名前はすぐにわかるのですが、
ではその本の装丁を担当したのは誰か?という情報は実はあまりきちんと蓄積されていないんですね。
図書館などの蔵書ではカバーはとってしまうケースも多いですから。
ですので、この分野に関心を持ち研究をされている方を調べ、その方に教えてもらったり、
自分でも古書店に行き調べるなどしました。
本に関しては、神奈川近代文学館さんなどからたくさんお借りしています」

 夏目漱石「道草」の装丁、青楓は
漱石の絵の先生でもあった
夏目漱石「道草」の装丁、青楓は
漱石の絵の先生でもあった

展覧会全体から、青楓の生きざまを感じて欲しい

――青楓は投獄されたあと、洋画を描かなくなっています。
彼のライフワークとも言えることなのに、なぜそうしたのでしょうか?


喜夛 「彼の中では、ある時期から洋画は展覧会で発表する、
ということと作品作りがセットになっていました。
多くの人に見せる・見られるということはどういうことかと考えると、
やはり何でもないものではなく、社会的に意味のあるもの、
メッセージ性があるものを発表することが大事なのだと考え、
批判性のあるものや真実を問うものを発表するのですが、
これが警察からお咎めがあり、投獄されてしまうわけです。
これを彼は、『自由に発表出来ないということは、そこまで社会が成熟していない』と考えるわけです。
これでは洋画を(自分の思う通りに)発表出来ない、ということで洋画をやめました。

 晩年期は日本画を手掛ける、
これはその作品の一角
晩年期は日本画を手掛ける、
これはその作品の一角

その後、南画で東洋思想を足掛かりに、内面的なものへの探索に向かいました。
良寛の研究を盛んに行うなど、生涯において精力的に活動をつづけたのです」
津田青楓という一人の人間がどう生きたかを、展覧会全体を通じて感じて欲しい、と喜夛さん。
多様性が認められる反面、モノや情報に溢れ、目標が見つけづらい現代において、
彼の生きざまはそれ自体が一つのメッセージであるように感じた取材でした。



■展覧会情報
~生誕140年記念 背く画家 津田青楓とあゆむ明治・大正・昭和~
会 期:2020年2月21日(金)~4月12日(日)
休館日:月曜日
開館時間:午前10時~午後6時 ※入館は午後5時30分まで
観覧料:一般1,000円、高校・大学生および65~74歳800円、
    中学生以下および75歳以上無料、ほか
※詳細は、HPをご確認ください。
https://www.neribun.or.jp/event/detail_m.cgi?id=201912151576384229

サポーターの取材後記

パイレーツ
時代におもねらない画家がいた。かといって孤高というか、時代に鈍感であったり避けていたわけでは無い。津田青楓。練馬区立美術館で今開催されている展覧会に行って、その存在を初めて知った。
何事にも束縛されず、真正面から関わることにより得た自由、これが、彼の生き方のど真ん中にあった。美術を究めようとベル・エポックのフランスに留学。官展を飛び出し二科展をつくる。夏目漱石に好かれ、本の装丁をする。河上肇を助け権力批判の絵を描き逮捕される。で、自由に描けなくなると、「(社会性の欠けた)今の展覧会はちっとも文化的な価値がない」とあっさり洋画の筆を折ってしまい、自らの内面をのぞき込むような文人画や書を多く発表するようになる。
まあ、有り余る才能を持っていたからできたとも言えるけど、彼は、50歳代まで、常に勉強、勉強で、新しい技術や知識を身に着けていった。それも自由のため。いや、良寛の研究になると一生かもしれない。
自由に、友のため、自分のため、好きな書や絵を描いて、96歳で往生する。なんて素晴らしい!
なみ
練馬区立美術館の企画運営について、学芸員の説明「他の美術館でやらないことを」目指して展示すること聞き、敬意を表するとともに練馬区民が誇れる美術館にますます期待します。
この度の、「生誕140年記念 背く画家 津田清楓とあゆむ明治・大正・昭和」展示作品を観てすばらしいものであると感じました。やはり美術館に来ないと実感が得られないものです。なかでも、「背く画家」の言葉に関心をもち、作品を見てとりわけ「ブルジョワ議会と民衆生活」に感銘を受けました。その時代の社会情勢を画を通して訴えようとした画家の姿勢が理解できました。
豆柴
津田青楓はおろか美術に関してほとんど素人であるが、今回、サポーターのパイレーツ氏の企画で同行取材が実現した。
津田青楓は19歳にして既に世に作品を出し優れた才能の持ち主であった、従軍経験がその後の人生に大きく影響したようで夏目漱石の装丁には、改めて興味を覚えた。美術の世界のみならず多くの分野で功績を残したことが本展示でよく分かる。
今回の企画を通じ、改めて世間に脚光を浴びたのはとても良いことだ。
知識豊富な学芸員に説明して頂き、改めて津田青楓の偉大さが分かった。館内を一巡、それぞれの説明が分かりやく改めて企画された学芸員の皆さんの努力に敬服した。それにしても一つの企画展示を行うには大変な事前の準備がなされていることも知る。
青楓の背景を知った上で後日改めて美術館を訪ねた。同じ展示を日を置かずして見るのは私には初めてだが、それほど感銘深く奥深い展示であり、優れた作品のみならず明治、大正、昭和にまたがる氏の生き方も興味深かった。

サポーター紹介

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