サポーター体験記
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「物を見ることは、その背景や歴史をも知ること」いざ、実物教育の殿堂、唐澤博物館へ

「物を見ることは、その背景や歴史をも知ること」いざ、実物教育の殿堂、唐澤博物館へ
明治の学校をイメージした博物館外観、
平成5年に開館
日本の教育史を知ることは、私たち自身のいままで、
そしてこれからの歩みを知る事なのかもしれません。
タイムスリップしたかのような空間に懐かしさがあふれる唐澤博物館を取材しました。
そこに収蔵されているのは、「物」ではなく、「物にまつわる歴史と熱い想い」でした。

唐澤博物館

取材ご担当:館長 唐澤るり子さん

所在地
176-0012 東京都練馬区豊玉北3丁目5−5
電話
03-3991-3065
URL
http://karasawamuseum.com/

唐澤富太郎氏が収集した教育関連の資料の数々

――まずこの博物館のことを教えていただけますか?

唐澤 「唐澤博物館は私の父、唐澤富太郎が研究資料として集めた物を展示しています。

父は東京教育大学で教えておりましたが、
文献資料にはない、実物だけが持つ迫力ということに着眼し、
「実物による日本教育史の開拓」という独自の研究方法を志しました。
物には先人たちの知恵と心が込められている、
その声を聴くことで日本人の人間形成史を探ろうとしたのです。
収集は、北は北海道、南は沖縄まで日本全国を回りまして、
さまざまな教育関係の資料を集めています。

 在りし日の唐澤富太郎氏
全国を回り、膨大な資料をコレクションした
在りし日の唐澤富太郎氏
全国を回り、膨大な資料をコレクションした

この建物は、元々昭和43年に収蔵庫として作られたものです。
火災から資料を守る目的で鉄骨造です。
平成5年に完全リニューアルをし、博物館として皆さんに御覧いただけるようになりました」

――最初に建てられた時から、こんな不思議な趣だったのですか?

唐澤 「不思議に感じられます?(笑)
収蔵庫時代は壁も内装も真っ白、それに青い三角屋根でしたから、
教会だと間違っていらっしゃる方も多かったです。

博物館の内装は、木の柱や床にして、明治時代の学校をイメージしているんですよ。
入り口すぐにあるこの手形は、建築士さんの発案で父や孫、
建築に関わった皆さんが記念に残していった物です」

唐澤 「館内ところどころ古いものを利用しており、
例えば2階への階段の手すりは、実際に明治の学校で使用していた物です。
鳥取県の倉吉市にあった明治20年創立の学校の階段の手すりを、
貨車を一台借り切って、東京の方に運び移設しました。
天井のシャンデリアも、実際に明治の学校の講堂を照らしていたものです。

 遠く倉吉から運んだ手すり
使用した学校の写真も館内に残っている
遠く倉吉から運んだ手すり
使用した学校の写真も館内に残っている

倉吉に縁があったわけではなく、とにかく全国各地から
あらゆる手段を講じて物を集めましたので、たまたま倉吉からこれらを手に入れた、という感じです」

館長によるご案内、膨大な資料の魅力をひも解く

唐澤 「館内は1階~3階まで展示室になっています。
1階は、明治・大正・昭和の学校の歴史に、
2階は寺子屋とおもちゃ、文具
3階が仕事や暮らしの物、ですね。

ご覧のように学校教育だけではなく、もっと広い意味の、
生活教育という視点で物事をとらえていましたので
様々な物を展示しているんです。

例えばホールの世界地図の下にあるものは、
台のように見えますが、実は玉川上水の木管、1600年代の水道管の実物です。
江戸時代の初期に、羽村~四谷大木戸
まで43キロという距離の上水道を引いたというのは、世界に誇れる偉業ですね」

 玉川上水と言えば、江戸の街を
大きく発展させたひとつの要因である
玉川上水と言えば、江戸の街を
大きく発展させたひとつの要因である

――博物館にある所蔵品はおびただしい量ですから、
さすがのるり子館長も全ての品物の詳しい来歴は現在も調査中、
とのことですが、目につく物の一つひとつにこの博物館に来るまでにドラマがあると思うと、
なんだか凄いエネルギーを感じます。
唐澤 「では展示品をご案内します。

ここは明治になって近代的な“学校”という物が出来たばかりのころの物が展示してあります。
江戸時代と明治に入っての教育の大きな違いは
文明開化とともに西洋の教育を輸入してきた点にあります。

具体的に何が違うかというと、日本で盛んであった寺子屋は、
子どもがたくさんいても基本は『個別教授法』でして個人個人に対して教えていました。
それが明治になると、『一斉教授法』という、今と同じ教育法になります。

そこで使われた一番の教材がこの、“掛図”と言われる物です。
掛図を使いながら教師が鞭で示し、生徒と問答形式で勉強しました。


こちらは第三単語図と言いまして、このおもちゃ絵に描かれている掛図の実物が
これなのです。戦前ですから、横書きの文字は右から左に読んでいきます。
第三単語図はモモ・クリ・ナシと言って果物ですとか野菜を
子供達に教える目的で作られた掛け図です」

 単語図と呼ばれる掛図、左の額の
絵に描かれたものの実物が右に
単語図と呼ばれる掛図、左の額の
絵に描かれたものの実物が右に

――こちらのおもちゃ絵に描かれている物と全く同じですね!
忠実に再現されているんですね。
この日本で一番最初の掛図は、日本でもここにしか現存していないそうです。

唐澤 「単語図は第一~第八まであります。
入学して最初に学ぶのが、この糸・犬・錨(いかり)という書き出しの第一単語図です。
今では、大人の人も読めないような難しい字が出てきますね」

――糸のイと井戸のイというのは表記を分けていたんですね・・・。

唐澤 「そうなんです。
発音自体は鎌倉時代くらいにほぼ同じになったようなのですが、表記をア行とワ行で、
発音も『ウィド』に近く、別のものとして勉強していたようです。

教科書も作られていました。
西洋の教育を取り入れる、ということで教科書は翻訳教科書が中心でした。
日本の最初の国語教科書『小学読本』は、アメリカの『ウィルソンリーダー』を翻訳したものです。

ところが面白いのは、
明治6年の教科書なので、当時の日本人は野球を知らないんですね。
ですから、絵を起こしたときになぜか3人の子供がバットを持っている、
という不思議な状況になってしまっています。

唐澤博物館の特徴の一つに、関連する資料の充実さがあると思います。
当時の印刷は版木を利用しますが、3000部くらい刷るとすり減って使えなくなります。
そういった版木を、今でいうリサイクルで、再利用するんですね。
この教科書の野球のページの版木を使った火鉢が、ちゃんとここにあるんですよ」

――ええっ?!このページを刷った原本の版木まで収集されてるんですか?
、、、すごい収集能力といいますか、これはもはや執念ですね。。
まだまだ収蔵品が続きます。

唐澤 「こちら、幻灯機です。今でいうプロジェクターなんですが、
明治の20年くらいになると幻灯機を使った“視聴覚教育”がさかんに行われるようになります。
幻灯機を使った授業が多くなります。
ガラスに描かれているのは地理や修身の教材、ことわざなどです。
部屋を暗くして、白い紙に幻灯機を使って大きく映し出して使用しました。

 ガラス板に絵や文字が細かく絵描かれる
材質は違えど、仕組みは現在とほぼ一緒
ガラス板に絵や文字が細かく絵描かれる
材質は違えど、仕組みは現在とほぼ一緒

もちろん幻灯機の実物もあります。
昔は電気がありませんでしたので、石油ランプを中に入れ、その光でガラス絵を投影していました」


――これらの教科書っていうのは昔はタダでもらえた物なのでしょうか?

唐澤 「いえいえ、買う物でした。
無料で配布されるようになったのは戦後ですから、まだ比較的近年のことです。

1人に1冊与えられなかったこともあり、長机に2人で座って一緒に見て学習していました。
学校関係では他に、チャイムの代わりの振鈴とか祝祭日に配るお菓子の型もあります。

紀元節とか天長節の時には、学校に行って校長先生の話を聞くわけですが、
そのあとにお菓子を配ることで、子ども達はそれが楽しみで、一生懸命に聞きに行くのです。
それも教育関連資料として収蔵されています」

 直接的にはお菓子の木型だが、学校の
視点を絡めることで教育資料の分類に
直接的にはお菓子の木型だが、学校の
視点を絡めることで教育資料の分類に

――富太郎氏は手に入る物は全て手に入れる主義だったそう。
この他にも、大型の教育教材を自作する先生などの資料もあり、当時の教育者の熱を感じます。
富太郎氏が目指した実物教育=物が持つ圧倒的な迫力・物を通して先人の知恵と心を知る、を
まさに実感できました。

43度(!)の角度の階段を登り、2階に向かいます

――2階は寺子屋の展示です。人々の生活に光を当てているため、
おもちゃなども展示されています。
女子のおもちゃでは、裁縫セットのミニチュアもあり、
お母さんたちの真似をする中で遊びながら学んでいったのでしょうか。
おびただしい数の、将軍のような人形があります。

 様々な形状、色合いの天神様
写っているのはごく一部
様々な形状、色合いの天神様
写っているのはごく一部

唐澤 「これは学問の神様の天神様です。
江戸時代には、寺子屋の信仰の対象でした。
明治以降は一般家庭にも広く普及しました。
私の父も新潟県出身ですが“マイ天神”を所持しており、朝晩お祈りしていたそうです。

青森から鹿児島まで全国各地で天神人形は作られていました。
先日、北陸へ天神人形の調査に行ったのですが、
ここにある大きな天神様の出自が判明しまして、福井県の武生の物でした。
昔は天神様は、男の子が生まれるとお母さんの実家から送られてくる物
だったんですね。現在でも富山県では天神人形を作っている方がいて、
この風習が残っているそうですよ。

お正月や上巳の節句、つまり3月3日は、今は女の子の節句ですが、
かつては天神人形を飾る風習もありまして、
もしかすると、北陸地域の学力テストの成績が全国平均よりも良い、
というのは天神信仰が関係しているのかもしれませんね」


――人形からそんなことまでわかるとは・・・。
物から歴史や文化、風習を辿るのが、なんだかおもしろくなってきました。
こちらの絵はなんですか?

 大切に保存してあるので、後々の
研究で新事実が判明することもある
大切に保存してあるので、後々の
研究で新事実が判明することもある

唐澤 「この絵が面白いんですよ。
父は、コマとか泥合戦とか、遊びの絵として収集したのですが、
最近の研究で、これらは戊辰戦争の風刺画であることが分かりました。

例えばこの絵の左上の子どもを見ると梯子柄の法被を着ています。
ハシゴとヒトツバシをかけていて、これは徳川慶喜を表しています。
庄の字の法被は庄内藩、左上は和ろうそくの柄ですが、これは会津の名産です。
当時の人が見れば、もう一目瞭然の内容だそうです。

このようなことを発想する日本人が居たことが、面白いと思いませんか?」

収集を始めたきっかけは、海外での経験だった!

――唐澤富太郎氏は、具体的にはいつ頃から本格的に収集されるようになったんですか?

唐澤 「父は昭和36年にユネスコに依頼され、ドイツに講演に行きました。
その後15~16ヵ国、ヨーロッパやアメリカを回り、
最後にアメリカのボストンミュージアムに出向いた際、
日本の美術品が、素晴らしい日本庭園とともに、たくさん展示されていたそうです。

それまでヨーロッパの“石の文化”に圧倒されていた父ですが、
ボストンで日本文化の素晴らしさを再認識した、と。
それと同時に、日本の美術品や文化を海外に流出させてしまうことに
忸怩(じくじ)たる思いが芽生えたそうです。

そこから、自分が出来る範囲で、出来る限りの文化財を集めよう!
と強く思いました。
帰国したのが翌年ですから、私の記憶では昭和37年から43年過ぎくらいの
10年弱で、一気に集めたようです。

私が子供の頃は父が凄い勢いで集めていまして、
それこそ家の中は足の踏み場もない、食卓のテーブルも半分以上
収集した物が置いてあり、狭いスペースで食事をしていましたね。
お風呂にもトイレにも置いてある、そんな状態でした(笑)」


――どういったところから集めてくるんですか?

唐澤 「(主に)古道具屋さんですね。
全国の古道具屋さんに行ってました。
講演があると、頂いた講演料を全部、その土地土地の古道具屋さんに費やしていました。
父がよく言ってたのは、
『電話帳に載っているような大きな古道具屋さんには、自分が望む物はない』、
『7軒目くらいまで当たると、欲しい物が手に入るんだ』と」

 寺子屋の机たちも一つづつ
コツコツと集められた
寺子屋の机たちも一つづつ
コツコツと集められた

――当時の教え子たちと連れ立って、授業が終わるたびに
各地の古道具屋さんに出向き、トラックいっぱいの収集をする毎日。
るり子館長は、そんなお父様と学生さんらの楽しそうな姿をいつも眺めていたそうです。
昭和37年くらいですと、我々シニアナビねりまサポーターも高校生くらい。
その時分から、コツコツとこのようなコレクションを集めていた
慧眼(けいがん)と努力に唸ります。

なんと館長室に潜入!唐澤富太郎氏の息遣いを直に感じる空間

――るり子館長が子供のころ、富太郎氏はどんなお父さんでしたか?

唐澤 「父の好きな言葉に
“精神ひとたびいたらば 何事をか成らざらん”
(精神一到主義)
要するに、思い込んだら一筋、何が何でも成し遂げる、と
まさに言葉通りの人でした。

努力することを尊び、失敗してもいいから努力をしなさいと
常日頃言っておりまして、怠ける事には大変厳しい父でした」


――こちらの建物ができたきっかけを教えてください。

唐澤 「ある日ホコリを被る収蔵品を見て、物が泣いている、と感じました。
それで私が父に“博物館をやらないか“と持ち掛けたところ
『それはいいね』となり、それが30数年前の話です。

もともと父は、博物館を作るためにこれらを収集し、自ら『教育博物館』という
大きな看板を作っていたくらいですが、本人は(法隆寺の)夢殿を模した建物を作りたかったらしく。
さすがにそれは無理で、それで収蔵庫を改装して、現在の形になりました」


――床から棚から、まるで最初からあるかのような佇まいですね。
モダンといいますか、現代っぽくないというか。
独特の建物ですが、どなたが設計されたのでしょうか?

 まるで映画のロケに使われそうな、
品よく作りこまれた場所
まるで映画のロケに使われそうな、
品よく作りこまれた場所

唐澤 「建築家の北澤叡先生という方です。
ご自身もラジオをコレクションしており、初めから父の気持ちをとてもよく理解してくださいました。

素晴らしいご縁に恵まれて、明治の学校をイメージした館内となりました。
父はこれだけの物を集めましたから、とても倹約家でしたが、
“物に対する責任があるのだ”と、館のリノベーションへの投資は惜しみませんでした」


――これらの物の、元の持ち主さんと現在もコンタクトがあったりするのでしょうか?

唐澤 「父は当時それなりに有名でしたので、週刊誌に“こんな物を集めています”と
一文を掲載したんですね。

そうしたら、それを見たある方が、お母さまがずっとスクラップブックなどで保存されていた
ご自身の作品を、その資料をまるごと寄贈してくださって。

つい数年前に、“自分の作品に会いたくなった”と訪ねてこられました。
半世紀ぶりの感動的な再会でした」

 父である富太郎氏の想い出を語る、
現館長のるり子さん
父である富太郎氏の想い出を語る、
現館長のるり子さん

――るり子館長は、収蔵された品々に囲まれてると、
前向きな力をもらえる気がする、と言っていました。
寺子屋教育があったからこそ、日本は近代で大きく発展したことは紛れもない事実です。
私たちの文化を支えた教育と、その背景である生活が、
そして富太郎氏の情熱が、物を通して感じられる空間でした。
練馬に、名所をまた一つ発見しました。

サポーターの取材後記

みずすまし
古風な建物の中に蒐集・展示されている多数の史料は、全て当時の貴重な実物で、時間を忘れ時代を想像しながら見学する事が出来ました。又このように多くの史料を収集した熱意に敬意を表すると同時に、ネットワークによる蒐集をうかがわせる手法にも感銘を受けました。館内が多少暗く感じたのも、失うと再び蒐集する事が不可能な、大切な史料を紫外線などから守る保存のご苦労と実感できます。
誰もが平等に受ける事が出来る現代の教育も、江戸時代の寺子屋から始まる「商は商としての」「農は農としての」教育が、先人の御努力・ご苦労により進化を遂げて今有る事に強く感謝したい。教育が時代を変えるのか、時代が教育を変えるのか、突き詰め、新しきを導く研究の大切さが理解できます。
時代的な知識に乏しい私でも、感心し、楽しく見学できたのは適切な説明が有ったから。初めての見学には、館長の案内・説明をオススメします。(要予約)
豆柴
自宅から至近にあり、一度見学したいと思っていたが、今回機会を得た。落ち着いた厳粛な建物の中に、目を見張るように整然と多くの教育関係の資料が展示されている。
一つ一つの時代背景などを想像しながらの見学では何日かかるであろうか。七つ玉の算盤、めんこやコマなど懐かしい玩具、そして当時の先生の創意工夫に満ちた教材も。今日の日本の教育レベルの高さの原点を感じた。小さな二人用机では、憧れのT.Sさんと仲良く座りドキドキしながら勉強した小学校時代を懐かしく憶い出した。良き後継者に恵まれ創立者は苦労の甲斐有り喜んでいられることでしょう。
10年間程でこれだけの資料を収集した創立者の熱意、苦労、エネルギーには感嘆した。個人博物館ゆえ管理、保存は今後大変だと思うが、多くの人が訪れ昨今の教育にも思いを馳せて欲しい。教育の歴史体験が出来る我が国唯一ともいえる貴重な博物館である。
パイレーツ
美しいフォルムを表す言葉の一つに「機能美」がある。普通は、使いやすさを中心に手足の動きや物理の性質を取り入れてモノをデザインしていき到達した普遍的な形(アノニマスデザイン)をいう。最近流行りのユニバーサルデザインは、視覚や聴覚などの性質も取り入れた機能美の一つであろう。いや、もう一つある。教える、学ぶ、考えるといった頭の中の働きを視覚や動きで分かりやすく伝える教材も、このアノニマスデザインを追求してきていたのだと唐澤博物館を訪れ、気づいた。唐澤博物館の教材の形の変遷から、教育の方法や考え方が、その教材を手にした子どもたちの眼の輝きとともに伝わってくるように思えた。AIやロボットの時代だからこそ、教材という頭の中の働きのアノニマスデザインは、見直されても良いのでは、と思うのは、あまりにも素朴だろうか。

サポーター紹介